キリストの復活は、キリスト教の核心であるだけでなく、全人類の歴史で文字通り最も偉大な出来事です。主イエスのバプテスマの後に、イエスからアダムまでさかのぼって系図を記したルカは、その偉大さを私たちよりはるかに深く認識していたはずです。
ルカ24章での復活の出来事には、ルカ独自の「エマオへの途上」で2人の弟子たちにご自身を隠して現れたイエス様の出来事が書かれています。当初、イエスの復活を信じていなかった彼らでしたが、よみがえったイエス様だと分かってから、その姿が見えなくなった後で、「私たちの心は燃えていたではないか」と互いに言い合いました。
私たちがこの場面に入っていき、彼らの喜びと興奮の様子をよりよく理解するために、以下の5つのポイントを考察します。
- 「エマオ」が当時の弟子たちに意味していたこと
- 「燃えていたではないか」の意味と文法的解説
- 「燃えていた」ことでの2つの結果
- 彼らを「燃やす」ために、イエス様が用いた方法
- 私たちが「燃え続ける」ための勧め
1.「エマオ」が当時の弟子たちに意味していたこと
「エマオ」はマカバイ記において「イスラエルの解放の戦場」であり、ユダ・マカバイが異邦勢力を打ち破った民族的勝利の象徴の地でした(文末の資料①※1を参照してください)。
イエス様の時代、ユダヤ人の共通の願いは「イスラエルを贖(あがな)う方」の現れることでした。そのことは「民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていた」(ルカ3:15)からも理解できます。
ですから、エマオに向かう弟子たちの心には、セレウコス朝との戦いでユダ・マカバイが勝利したように、敵への「勝利」と「解放」への期待が高まっていたと推測できます。
2.「燃えていたではないか」の意味と文法的解説
ルカ24:32をインターリニア新約聖書で示します。

ここで「燃えている」のギリシャ語の原形は καίω(カイオー)です。この語はギリシャ語辞書※2ではこう説明されています。
① 灯(とも)される状態にしたり、火がついている状態にしたりすること、灯すこと、ⓐ 文字通り:ランプ、受動態で能動的な意味で「灯される、燃える」ⓑ 比喩的に:心、ルカ24:32
② 何かを燃やして消費させること、能動態・他動詞で、燃やす、焼き尽くす。受動態・自動詞で、焼かれる、燃やされる。
この箇所で καιομένη(カイオメネー)の文法分析は、動詞 καίω(カイオー)の現在形受動態分詞、主格、女性、単数です。この分詞に続いて、ἦν(エーン)が出てきます。この動詞は英語のbe動詞に相当する εἰμί(エイミ)の未完了形、能動態、3人称単数です。
分詞+ἦν は、過去の継続的な動作を意味する未完了形よりも、より一層継続的、連続的な動作を強調する表現方法です。ですから、より正確に訳すと「ずっと燃え続けていた、絶え間なく燃え続けていた、持続的継続的に燃え続けていた」となります。エマオからエルサレムまでの11キロを徒歩で歩いていたのですから、速足でも2時間以上はかかったはずです。その間、2人の心はずっと燃え続けていたのですから、通常の感動をはるかに超えた体験だと思われます。
「道で話し続けている」「聖書を説明・解説している」での動詞の時制はいずれも未完了形です。ここから、よみがえった主イエス様は、直接、2人の弟子たちに「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを解き明かす」ことを「継続的に話し続け」、「聖書を継続的に説明・解説している」ことが理解できます。
3.「燃えていた」ことでの2つの結果
ルカ24:35をインターリニア新約聖書で示します。

ⅰ)ここで、彼らを意味する αὐτοὶ(アウトイ)は、代名詞 αὐτός(アウトス:彼)の主格が文頭に出ています。これは、「彼ら」の強調的用法です。「燃えて燃えて燃え続けていた」結果の第一として、この2人の弟子たちは、エルサレムにおける弟子たちの集まりの中心人物になりました。彼らは「物語る、報告する」(ἐξηγοῦντο エクセーグント:ἐξηγέομαι エクセーゲオマイの未完了形)動作を連続的、継続的にしました。この動詞は、ギリシャ語辞書※2では、次のような意味があります。
① 詳細に述べる、話す、報告する、描写する、主に物語的に。ルカ24:35、使徒10:8;15:12、14;21:19
② 非常に詳細に述べる、解説する。しばしば、情報を伝えたり神の秘密を明らかにしたりする祭司や占い師の活動の専門用語として;また神的存在自体に関して使用される。ヨハネ1:18b
ここで、注目すべきことは、①での聖書での意味は、いずれも神、キリストの介入が中心話題であり、世俗的な話題には使われていません。
しかも、ἐγνώσθη(エグノーセー)は、γινώσκω(ギノスコー、知る)の受動態で、彼らは自分たちの能力で分かったのではなく、よみがえった主イエス様によって知らされたのでした。彼らは、神である主イエスの直接的な介入であることを意識して分かち合ったのです。
ⅱ)2つ目の結果は、彼らがこの話題を話しているまさにその時、よみがえった主が現れて、使徒たちの前でよみがえった証拠を示し、さらに、聖書の中心話題がキリストであることを明らかにされたことです(ルカ24:36〜49)。このことは、使徒の働きでのペテロの証言の途中に聖霊が下ったこと(使徒10:44〜46)と平行しています。
4. 彼らを「燃やす」ために、イエス様が用いた方法
弟子たちを燃やす上で、特に重要な語がルカ24章で3回使われているディアノイゴーです。この語は、ルカ24:32で、「聖書を説明・解説する」、24:31では「彼らの目が開かれ」、24:45では「彼らの心を開いて」と訳されています。一般的な「開く」ではなく、「母の胎を開く」にも使われ、「徹底的に開く」「すっかり開く」「通り道を開けて開く」ことです。
その手段として「イエスは、モーセ、および、全ての預言者たちから始めて、聖書の全ての中で、ご自身についての事柄を、彼らに次々と説き明かしていった」(ルカ24:27、白畑訳)と書かれています。同様の真理は、24:44以下でも強調されています。
よみがえったイエスから、聖書の中心であるキリストについてはっきり、かつ詳しく教えられること。それに集中し、神の直接的な介入を受けること。これこそ、聖書を原語から学んだルターやカルバン、ウェスレーが重視し、実践してきたことです。
5. 私たちが「燃え続ける」ための勧め
ともすれば、私たちもエマオ途上の弟子たちのように、政治的・軍事的・世的な勝利や解放に目を奪われがちになります。しかし、弟子たちを「燃やし続ける」ためによみがえられた主イエスが用いられた方法は、教会の歴史の中でも証言されています。
使徒パウロは、Ⅱテモテ2:8でこう勧めています。
私の福音に従い、ダビデの子孫の出の、死者からよみがえらされたイエス・キリストを思い起こし続けなさい。(白畑訳)
(※1)資料①
- BC165年:エマオでのマカベア戦争の勝利(Ⅰマカバイ3、4)
- BC160年代:シリア軍の要塞化(Ⅰマカバイ9:50〜52)
- BC63年:ローマ軍の宿営地化(ヨセフス『ユダヤ戦記』1.156、157)
- AD4年:ローマによる「ニコポリス」再建(ヨセフス『ユダヤ古代誌』17.289、290)
- AD66〜70年:ユダヤ戦争でのローマ軍拠点化(ヨセフス『ユダヤ戦記』2.71;4.444〜447)
(※2)BDAG(Bauer–Danker–Arndt–Gingrich)ギリシャ語レキシコン(辞書)
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