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日本宣教論(30)日本国内の状況:満州国建設の意味 後藤牧人

2017年1月11日07時43分 コラムニスト : 後藤牧人 印刷
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満州国建設の意味

なお満州の領有については、辛亥革命の指導者であった孫文より日本の有力者に書簡があり、革命に協力してくれるなら(清国の側につかない、清国のための派兵をしない)、その代償として満州を日本に与える、としたものがあるとされている。この書簡の有無について学会で取り上げようとすると、日本国内でもまた日中合同の学会であっても怒号と大混乱に終始し、ことの真偽に関する議論が成立したことがない、という。そのような趣旨の記事を朝日新聞で読んだことがある。辛亥革命の100年記念までは無理にしても、満州建国100年を迎えるころには、この辺の事情も明らかとなってほしいものであるが、どうだろうか。

清王朝はその全盛時代には、父祖の地である満州に農耕民が流入するのを許さなかった。狩猟民族、騎馬の民であった満州族は父祖の地をそのままの形で取っておきたかったのである。もともと数十万人の清族が狩猟をもって生活していたにすぎなかった満州である。原野を多く残していた。

それにしても五、六十万人の満州王朝が明を倒し、清朝を成立させたのである。この清朝が衰退し、革命が起こったのであるが、その頃、満州は長らく「無主」の地であり、万里の長城の北にあるこの地には、100年以上中国の支配は及ばなかった。

清朝の崩壊前から幾つかの私的武装暴力集団(軍閥)が発生し、互いに戦い合い、それぞれが租税を徴収しており、無警察、無秩序だった。(つまり孫文や新しい中国からしても元来統治不可能な場所だったのである)。

なお「軍閥」という中国語の意味であるが、これは日本語のニュアンスとはかなり違うのである。同じ漢字を使用しているので、つい日本語の感覚で理解してしまうが、これは気を付けねばならない。

日本語では「閥」とは官庁・軍隊などの組織がまずちゃんとあり、その秩序の中の私的なつながりという意味である。東大閥など出身学校のつながりであり、閨閥などというものもある。また東條閥などといえば、その個人が形成していた人脈に依拠するものである。このように日本語の用法では、一般に「隠然たる勢力」のことを言う。既成の秩序の中の私的な結び付きのことである。

しかし中国語の「軍閥」は、隠然勢力のことではない。中央政府の統治が及ばない無秩序地域における軍事勢力のことである。つまり地方の暴力集団が武装し、軍隊組織をつくり、一定の勢力範囲を統治し、税金の徴収、逮捕・処刑権をほしいままにする。つまり戦国大名である。これらは常に戦争状態にあり、離合集散が激しい。また各軍閥が紙幣を発行し、人民の膏血(こうけつ)を絞った。満州の紙幣は数十種類あり、それぞれが乱発されていた。

繰り返すようであるが、満州の軍閥は中央政府の有効統治が行われず無政府状態の中で、擬似地方政府めいた存在を形成している暴力集団であった。

関東軍は2万人に満たなかったが、各地の軍閥を倒した。何十万人の軍閥が一掃されたのは、民衆が軍閥を憎み、日本軍を歓迎したからであった。

満州国の建国に伴い、通貨は1種類に統一され、初めて安心して働けるところとなったのである。

匪賊(ひぞく)と呼ばれるものは、軍閥とは違う。組織された盗賊であり、収穫の時期には農村を襲い穀物を奪い、抵抗すれば殺すので、これら匪賊が軍閥の下部組織になっていることもあり、軍閥が匪賊と呼ばれることもあった。(満州に匪賊が2千万いたなどというのは引っくるめて言っているのだろう)

満州を日本の関東軍が治めるようになって、治安が良くなった。(治安の回復でない。治安は存在しなかったから、治安の成立と言うべきか)、そうして今まで経験しなかった「楽土」になり、たちまち人口が増加した。年に100万人が流入したこともあった。

当時の国歌(小生も満州で子どもの時に歌ったものだが)の中に新満州(シン・マンチョウ)、優良新満州(ユーリャオ・シンマンチョウ)・・・人民3千万(ジェンミン・サンゼンワン)という言葉があった。

満州国が成立する以前には、東北諸軍閥がそれぞれ割拠していた。その中にソビエトが着々と進出していた。ソビエトは東清鉄道の敷設について地方軍閥と話をつけており、鉄道の建設と警備のために、ソビエト陸軍を派遣しようとしていた。これは北京政府とは無関係に起こっていたことであり、ここから見ても、蒋介石政府は満州を実効支配してはいなかったことが分かる。これをそのまま放置すれば、満州のソビエトによる事実上の軍事占領が成立するところであった。

鉄道の警備のためのソ連兵の派遣というのは、ソビエトによる満州の軍事占領そのものである。これは中華民国政府が満州を支配しておらず、諸軍閥が勝手に満州の各地を領有しており、外国との交渉に応じていたのである。

満州は全土のほとんどが原野であり、トラックが年中使える地方道などなかった。雨季にはぬかるみで通行不可能となる。そのような所では、鉄道が唯一の通年の大量輸送の手段である。その鉄道沿いに軍隊が占領するということは、ほとんど全土が占領されるというに等しい。軍隊を通年で輸送できる手段を独占していることになる。(もっとも冬期の凍結時はその限りでない。人間だけに限れば、原野を馬で移動できる)。

小生の子どもの時の記憶(1939=昭和14=年まで居住)からすると、日本が建設した日本人市街地(舗装区域)をはずれると、幹線道路以外は雨季には全て泥の海であった。馬車の車輪が心棒近くまで泥濘(でいねい)に埋まる。現地人の御者たちはロバやラバを鞭(むち)打ち、大声を上げ、泥の中から引き出すが、 数歩進めばまた埋まるのであった。(もちろん名前は馬車だが、高価な馬は荷車には使わない。ロバかラバである)

満州に、このように鉄道を芯にする南北のベルトができる、そこは事実上ソビエト領であり、自由にソビエト軍の輸送が可能である。そうすると、もう朝鮮半島と日本の安全はない。一方、中華民国政府は、これを座視するのみ。有効な対策を講ずる能力はない。

日本はソビエトの進出を抑えて、満州国という緩衝国(バンパ・ステート)を作った。それによって初めて朝鮮と日本は救われたといえるのである。

国際連盟における日本の主張は、満州は中国が責任をもって統治している地区に当たらない。よって中国は、国際連盟の規約に照らしても提訴することはできない、というものであった。この主張は、もちろん通らなかった。

一般には、満州の建国と国際連盟の脱退によって日本は愚かにも滅亡への歩みを始めた、とされている。では、満州国を作らずただ情勢の流れるに任せていればどうだったか。そうすればいち早く満州はソビエト領となり、やがて朝鮮半島もソビエト領となり、日本は早く滅亡していた可能性がある。

英国は自分がアジアにも広大な植民地を有していることもあり、日本には植民地の保有を許そうとした。第一ソビエト・ロシアのアジア進出を日本が満州国によって抑えてくれれば好都合である。実に世界中がホッとするのである。

ところがスウェーデンが強硬に反対したといわれている。スウェーデンは西欧諸国のうち他国にさきがけて、植民地であったノルウェーを手放し、1905年にはノルウェーの独立を認めたところであって、新たな植民地の発生を許したくなかったのである。

ちなみに昭和天皇の死去に際しインド、フィリピンなどの諸国が数日間の服喪を発表したが、スウェーデン王室は、それらの国のどれよりも長い21日間の服喪を発表したが、何を意味しているのだろうか。

1933(昭和8)年に、スウェーデンの動きにより、日本は国際連盟から脱退した。そうして日本の起こした太平洋戦争を契機として、アジアの植民地の全てが解放され、さらには1960年代に至ってアフリカの植民地も続々と独立した。このような日本の営為の世界史的意義を、スウェーデンは認識していたのだろうか。

満州の独立に当たって米国の新聞記者が、日本はいつこれを承認するのか、と問うたところ、外務省の情報局長であった白鳥が「運河も無いし、急がない」と答えて相手を怒らせたことがあった。実はその29年前に米国が自作自演の「革命」をパナマで起こし、早速これを承認し、パナマ運河沿いに米軍を駐留させる協定を結んだが、その歴史を皮肉ったのである。

この時フランスはコロンビア共和国のパナマ地峡に運河を掘削していた。フランスはスエズ運河が成功したので、次はパナマを狙ったのであった。ところが治安が悪く、工事は進まず手放してしまった。

米国はフランスから掘削権を買い取ると、さっさとコロンビア国の一部であったパナマ地域に反乱を起こさせ、パナマ共和国として独立させた。米国が描いたシナリオ通りに事は運んだのである。その上でパナマ共和国と条約を結んで、米軍の駐留を認めさせた。こうして米軍の警備のもと運河は完成した。そういう事情があった。

満州を得た日本はソビエト・ロシアとの間に緩衝地帯を得、また初めて鉄鉱石と石炭、またアルミ原料のボーキサイト、それに加えてモリブデン、タングステンなどの稀元素を得ることができた。鉄と石炭、アルミなしでは近代化は不可能である。さらに石油の確保が、日本の課題であった。なお、日露戦争後の満州の人口については諸説あるが、少ないもので100万、多いものでは1千万としている。

いずれにしても日本時代に人口が爆発的に増えたことが分かる。

(後藤牧人著『日本宣教論』より)

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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)

後藤牧人著『日本宣教論』

日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。

(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)

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後藤牧人

後藤牧人(ごとう・まきと)

1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。

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