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日本宣教論(28)日本国内の状況:開国 後藤牧人

2016年12月14日05時47分 コラムニスト : 後藤牧人 印刷
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C 開国

19世紀の中ごろになり、航海技術の発展に伴い、もう鎖国という消極的な政策では国を守ることができなくなり、日本は開国へと方針を変化し、1868年をもって明治元年とした。キリスト教国のむき出しの力の政策の前に、翻弄(ほんろう)されてきた日本の姿がここにある。日本は鎖国によって、辛うじて保っていた平和から目を覚まし、力のせめぎ合いの荒海に出たのである。周囲の状況は、まことに険しいものがあった。

この先、日本の存立のカギは「富国強兵」にあり、そのために遅蒔(ま)きではあるが日本なりの植民地を獲得し、その上がりで国力を付けよう、という思考になった。吉田松陰、福沢論吉などもそのように論じた。もちろん、彼らの侵略的な思考はキリスト教国の「模範」から学んでのことであり、日本の発明ではない。植民地からの上がりで富国強兵を図らねば、日本は間もなく叩(たた)き潰されるという論理で、まずそれ以外に選択肢はなかった。

当時、20世紀初めの英国では、ヴィクトリアン・サイエンスと呼ばれる学術と政治の融合の全盛時代であり、英国中心の歴史観により、欧州各国によるアジア・アフリカ世界の分割の計画ができていた。英国は、当時世界の3分の1以上を領有、「日の沈まぬ国」といわれていた。有色人種、すなわち劣等なる人種を取り仕切るのは神から与えられた欧州の責任だったのである。

ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』(岩波文庫)は、当時のこの思想傾向を如実に表現し、文庫版の7、8冊に全世界の文化を論じ、いわば等級をつけてあり、日本の文化も論じてある(読んでみると、日本についての叙述は何だか全部ピントが狂っている!)。

当時、世界中の植民地から英国に、それらの領土の文物が、官、民を問わず膨大に集められており、フレイザーの『金枝篇』はそれらを整理、評価したものであった。なお、岩波文庫に収められているのは、英語の簡略版からの翻訳であって、オリジナルは、はるかに膨大なものであるらしい。

近年、このオリジナル版の翻訳が試みられているようである。方法論はともかくとして、19世紀の世界の文物を集めて論じているという点では、貴重な文献である。

ところが、世界の中でただ1つ、そのような「神から与えられた秩序」を理解しない国が東洋にあり、それが日本だった。日本は欧州の植民地にならぬばかりか、有色人種のクセに、またキリスト教徒でもないのに、自前で植民地を持とうとしており、まことに、これは「神をも人をも恐れぬ」不埓(ふらち)な国だった。

逆に日本からみれば、欧州のキリスト教国は機械文明には優れているかもしれないが、弱者を恐喝し、圧迫し、盗み、事あらば殺戮(さつりく)し、全く鬼畜に等しい、恐ろしい人種である。そうしてこれらの国の根本には、邪教キリスト教があった。日本の周囲ではキリスト教国による何千人から何万人単位のアジア人の虐殺が絶えず起こっており、今度はこちら、この間はあちら、という具合であった。

ごく自然な疑問として、これは「白人種の傲慢(ごうまん)と人種差別」から来るものだったのでないか。つまり、キリスト教とは関係のないことだったのではないか、という質問が出ることだろう。

さらに「キリスト教の責任」と言えば、これらの傲慢な罪人たちの罪を十分に防ぐことができなかった、ということくらいではないか。たまたま悪人の政治家がいて正義を無視しても、それは本人たちの責任であって、キリスト教には直接の責任はないのでないか。そういう、ごく自然な疑問が提出されるであろう。

このことについては、すでにマニフェスト・デスティニーの項で短く扱ったが、さらに後の章でより十分に扱いたい。

(後藤牧人著『日本宣教論』より)

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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)

後藤牧人著『日本宣教論』

日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。

(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)

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後藤牧人

後藤牧人(ごとう・まきと)

1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。

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