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こころと魂の健康(49)静寂を通して 渡辺俊彦

2017年4月8日13時25分 コラムニスト : 渡辺俊彦 印刷
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静まることの意味について考えてみましょう。私たちは、ひとり静かに自分と向き合う時間が必要です。しかし、現代人は時間に追われる日々を過ごしている人が少なくありません。忙し過ぎるということでしょう。「忙しい」とは、「心を滅ぼす」と書きます。

心を滅ぼさないために、私たちには静寂の時が必要です。一日のどこかで足や手を止め、静かに自分と向き合う時間を持つことができたら、何かが違ってくるでしょう。そのために、時間の使い方を工夫してみましょう。

かつてエジプトの砂漠の修道士と呼ばれた人の中に「アバ(長老=師父)」と呼ばれる知恵ある老人がいました。彼の言葉は、現代に至るまで伝承されてきました。それは、沈黙の中から生まれた自己認識の言葉だからです。

その言葉は、ヨハネ・カシアヌスという人の手記から知られるようになりました。ヨハネ・カシアヌスという人は、10年以上エジプトの砂漠の長老(師父)たちのもとで生活をした人です。この人物が、砂漠の修道士たちとの生活を通して貴重な言葉を記録しました。どんな言葉でしょうか。

ある孤独な修道士のところへ、ある日、数名の訪問者がやってきた。
彼らは修道士にたずねた。
「あなたは自分の静寂の人生に、いったいどんな意味があると思っているのですか?」
修道士はちょうど雨水溜めから水をくもうとしていた。
彼は訪問者たちにいった。
「水溜めのなかをのぞいてみなさい。何が見えるかね?」
その人たちは深い水溜めのなかをのぞいた。
「私たちには何も見えません」
しばらくしてから修道士はふたたび、訪問者たちにいった。
「もう一度、水溜めのなかをのぞいてみなさい。何が見えるかね」
訪問者たちはもう一度、下をのぞいた。
「ああ、いまは自分たちの姿が見えます」
修道士はいった。
「そうだろう。私がさっき水をくんだときは、まだ水面は波打っていた。いま水は静かになっている。これが静寂の体験だ。水が静まると、自分自身の本当の姿を見ることができるのだ」

(『修道院へようこそ』42、43ページ)

修道士は、「波打っている水が静まると、自分自身の本当の姿を見ることができるのだ」と言っています。確かに、試練や苦難という波の中では、なかなか自分の姿を見ることは難しいものです。

修道士が言うように私たちは、波打っている水が静まったとき、自分と向き合う姿の中で自分を知るのではないでしょうか。修道士のように、何げない日常の営みの中で自分の姿を映し出す道具を見いだすことは、幸いなことです。その道具を用いて静寂の時を用いることができたら、私たちは豊かになるはずです。

特にクリスチャンにとって、自分を映し出す水は聖書です。ヤコブ1章20~24節に「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます」とあります。聖書と向き合い、聖書に自分の姿を映し出すとき、「自分の深層」が見えてくるものです。その自分の深層の中に「自分の罪や怒り」の正体などが見えてくるはずです。

何回かにわたって、怒りの問題を考えてきました。その視点から、静寂を通して自分の内にある怒りの感情について「何に対して怒り」「何を相手に伝えたいか」など、気付きが起こったら素晴らしいことです。そして、怒りの適切な出し方を学んだり、修正したりするとよいのです。そうしないと、自分自身が怒りにコントロールされてしまい、不適切な方法で罪を生んでしまうからです。

ヤコブは「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」(ヤコブ1:20)と言います。ヤコブは「怒りやすい人は感情にコントロールされ」「公平な行動を取ることができない」ため、神の義を実現できないと言うのです。その結果、「すべての汚れやあふれる悪」となって表れてしまうというのです。だから、それを「捨て去れ」(ヤコブ1:21)と勧めています。

この言葉は、エペソ4章22節で「脱ぎ捨てる」と訳されています。これは、「古い着物を脱ぎ捨てるさま」を意味しています。ですから、ヤコブは古い着物を捨て去るために、「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい」(ヤコブ1:21)と勧めているのです。

ヤコブは、みことばを素直に受け入れることによって、新しい着物を着ることができると言うのです。それは、新しくされるということです。だからこそ、みことばに対して「聴く耳を持つ」という姿勢が求められます。みことばに対して聴く耳を持つことは、「自分の生まれつきの顔をみことばを鏡として見る」ということに他なりません。この「生まれつきの顔」は「心の顔」ではないでしょうか。そこから、「みことばに生きる」ということが始まります。

ルカ10章41、42節に「主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません』」とあります。イエス様は、マルタが接待に忙しくしている姿とマリヤの姿を比較するかのように、大切なことはみことばに聴くことであることを教えています。イエス様も静寂を大切にしておられたということです。

ヤコブにとっても、みことばに「聴く」ことは、みことばの前に静寂することです。ヤコブは、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます」(ヤコブ1:22~24)と言っています。

ヤコブにとって、みことばに聴くことと「実行する」ことは同じ扱いです。私たちが、静寂の中でみことばを鏡として自分を映し出すとき、みことばを「実行する者」へと変えられるということです。みことばを実行しようとする者は、怒りをコントロールできる者へと変えられるからこそ、「みことばに生きる」ことが可能になるということでもあると思うのですが。

残念なことですが、教会には「みことばと実生活とは違う」とする人がいます。あるいは、「これは聖書の話であって自分とは関係のないことだ」と割り切ってしまう人もいます。このような人は、みことばという鏡に映し出された自分の姿を回避し、人の責任にしてしまう傾向性があります。そのため、牧師や教会の人たちは自分を受け止めてくれないと思い込み、怒りを溜め込み育ててしまうのです。

その結果、自分を受け止めてくれないと思い込むあまり、他者に対し攻撃的な態度や批判的な態度をとったりすることが少なくありません。こうして、怒りにコントロールされてしまうのです。

このような人たちの内側には、「~は私の話を受け止めるべきである」などの「べき」が潜んでいるものです。この「べき」は、私たちのパーソナリティーの癖でもあります。この癖が霊的(信仰)な成長にも影響を与えているものです。

ですから、「べき」の修正が求められます。私たちは、みことばに自分の姿を映し出し、「べき」から生じる怒りを修正し適切に処理しましょう。また、適切な怒りの出し方へ修正しましょう。そして、怒りをコントロールし、みことばを実行する者に変えていただきましょう。

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渡辺俊彦

渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)

1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『ギリシャ語の響き』『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。

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