こころと魂の健康(46)受け入れることは難しい 渡辺俊彦

2017年1月7日22時08分 コラムニスト : 渡辺俊彦 印刷
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私たちは、日常のさまざまな人間関係の中で人を受け入れる難しさを経験していると思うのです。教会でも同じことが言えるでしょう。よく人は、「教会はどんな人でも受け入れるべきです」と言います。もちろん、誰もがそう思っているに違いありません。ですから、誰も反対しません。

しかし、受け入れるということは大変なことです。私たちは、「もしこの人を受け入れたら、大変なことに巻き込まれるぞ」と感じ、排除する原理が心の中に起こることがあります。また、「この人の問題や課題は手に負えないぞ」と感じることもあります。そして、人を排除してしまうのです。

この排除する心の原理は、「恐れ」ではないでしょうか。私たちは、自分と異なる存在に恐れを感じます。また、私たちにとって恐れの対象となる人たちは、病人や何らかの弱さを抱えている人たち、未知なる人たちです。

私は、神学校時代に次のような経験があります。どこの神学校でも毎週土日は、ミッション生として各教会に派遣されて行きます。そこでさまざまな経験をするものです。私は、派遣された教会で1つの失敗をしました。それは、教会におられた身体的にご不自由な方との関わり方に失敗した経験です。

私は、この方にどのように話し掛け接したら良いか分かりませんでした。そして、そのまま沈黙を通してしまいました。なぜ、沈黙してしまったのか。それは、どのように声を掛け何を話したら良いのか分からず、傷つけてしまったらどうしようという恐れの心があったからです。

それは、適切な関わり方ができない恐れでした。結局、その方から「私はミッション生から声を掛けてもらったことがない」という発言を耳にしました。自分の内にある恐れが、人を排除してしまう結果となってしまったのです。この経験は、自分の内に異なる者に対する恐れがあるという気付きを与えてくれました。私の未熟さから生まれた、後味の悪い経験はとても良い経験となりました。

異なる者に対する恐れだけではありません。私たちは互いに、自分の正しさ、確信、価値観などを否定してくる人に恐れを感じるものです。そればかりか、自分が大切にしているものや生活と生命の安全を脅かすもの、社会的地位を脅かすものに恐れを感じてしまいます。それだけ、人間は自分自身を脅かすものに対し恐れを感じてしまうものなのです。

それは、何らかの変化を恐れる自分自身の心におびえている姿かもしれません。そのためでしょうか。私たちの内にある恐れは変化を好みません。現状を維持することを好むのです。私たちは、変化を好まず、維持することにしがみつくあまり、人を排除してしまう傾向性を持っているということです。ですから、人を排除してしまう傾向性の根本には「恐れ」があるということです。

政治の世界などは典型的ではないでしょうか。特に、独裁政治などは変化を好みません。現状を維持するために反対する者たちを迫害し殺害してきました。グローバル化した社会の反動として起こっている英国のEU脱退。米国大統領選挙の現象も人々の恐れがあります。この政治的現象に見られる姿は、生活と生命の安全を脅かされるという恐れではないでしょうか。この恐れのために、弱さを抱えている人々を排除する原理が働いているように思えるのです。

マタイの福音書では、イエス様が馬小屋の飼い葉桶(おけ)にお生まれになったとき、東方の博士たちが星に導かれてエルサレムにやって来ました。そして、博士たちは、ヘロデに「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」(マタイの福音書2章2節)と尋ねたのです。この問いに対して「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」(マタイの福音書2章3節)とあります。

ヘロデは恐れたのです。ヘロデは、社会的地位を脅かすものに恐れを感じたのです。ヘロデの心に生じた恐れは何をしたでしょうか。マタイの福音書2章13節に「彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています』」とあります。

そして、マタイの福音書2章16節の後半に、「人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた」とあります。ヘロデの恐れは自分の保身のために、2歳以下の男の子を殺す排除行動に走らせたのです。

教会は、「どんな人も受け入れるべきだ」「教会はどんな人が来ても良いところだ」と皆が思っています。ところが、教会の方々は自分たちで抱えきれない、手に負えない状態になってしまうことがしばしばあります。すると教会の方々は、「先生は牧師でしょう。牧師なんだから何とかしてくださいよ」と牧師に丸投げします。こうして、自分と異なる存在、病人や何らかの弱さを抱えている方々を排除するのです。

それぞれの教会には、教会の力量があります。牧師にもそれぞれ力量があります。教会も牧師も万能ではありません。地上の教会は限界があります。牧師も人間です。限界があります。ですから、それぞれの教会、牧師自身もその力量を知ることが、恐れを乗り越えていくために必要ではないでしょうか。

他者を受け入れ、適切な対応をするために、教会の力量と牧師の自己理解、自己認識が必要です。どんな人でも受け入れる、ということは責任が伴うことだからです。私たちが引き受け可能な責任の範囲を明確にすることが大切です。そうでないと無責任なことになってしまいます。

本当に全責任を負えるのはイエス様しか存在しません。なぜなら、イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイの福音書11章28~30節)と招いておられるからです。

この招きの言葉は、「私が全責任を負う」ということです。イエス様は全責任を負うことができます。しかし、私たちは全責任を負うことができません。この事実を事実として受け入れようではありませんか。ここから、誠実で真実な関わりが始まるのです。

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渡辺俊彦

渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)

1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『ギリシャ語の響き』『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。

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