今回は、8章10~17節を読みます。
不条理の中での信仰
10~14節は、コヘレトに特徴的な「空」(へベル / הֶבֶל、私は「儚(はかな)い」という訳を取ります)という語が繰り返されています。ヘベルは、「不条理を生きる人間のありさま」と表現することもできると思いますが、その語が繰り返されるこの箇所には、それが凝縮されています。10節~12節aと14節で「不条理な現実」が語られ、それらが「不条理な現実における信仰の持ち方」を記す12節b~13節を囲んでいる構成と思われます。
その構成を踏まえると、以下のようになります。かっこ書きのヘベルは、筆者による加筆です。
不条理な現実 10 そして、悪しき者たちが葬られるのを私は見た。彼らは聖なる場所に出入りしていたが、あのように振る舞っていたことは町で忘れ去られている。これもまた空(ヘベル)である。11 悪事に対して判決が速やかに下されないため、人の子らの心は悪をなそうという思いに満ちる。12a 百度も悪を重ねながら、生き長らえる罪人がいる。
不条理な現実における信仰の持ち方 12b しかし、私は知っている、神を畏れる人々には、神を畏れるからこそ幸せがあると。13 悪しき者には、神を畏れることがないゆえに幸せはない。その人生は影のようで、生き長らえることがない。
不条理な現実 14 地上に起こる空なること(ヘベル)がある。悪しき者にふさわしい報いを正しき者が受け、正しき者にふさわしい報いを悪しき者が受ける。私は、これも空(ヘベル)であると言おう。
4月から、私自身がコヘレトの言葉を学び直していますが、今の時点で気付かされていることがあります。それは、この書が、「神の沈黙」の中で展開される天の下の出来事、すなわち不条理のただ中にあって、神が示す来世への希望を語る「黙示思想」とは異なり、「今この時を生きる者として、神に応答していこうとする文書」なのではないかということです。
第12回でお伝えしましたが、神の沈黙とは、ディートリッヒ・ボンヘッファーが「神なしに生きる」と語っていることでもあります。この場合、ボンヘッファーは、神の不在を言っているのではなく、ナチス政権下という、神の正義が見えず、神が沈黙しているように見える現実世界のことを言っているのでしょう。
ボンヘッファーは、コヘレトを愛読していたのではないかと私は考えています。コヘレトは、神の沈黙という現実世界の不条理をシニカルに見つめつつ、そこでの信仰を見いだそうとします。ボンヘッファーは、この書のそうしたところに共鳴していたのではないかと思えるのです。
この箇所では、悪人が義人の顔をして聖なる場所に出入りし(10節)、彼らのやっていることが看過されているために悪が満ち(11節)、執拗に百度――「うそも100回言えば真実になる」の100回と同じニュアンス――も悪を重ねながらも生き長らえる罪人がいて(12節a)、悪人にふさわしい報いを義人が受け、義人にふさわしい報いを悪人が受けるという「報いのあべこべ現象」(14節)が見られるような、さまざまな不条理な事柄が起こっているとされています。これらを、コヘレトは神の沈黙と捉えているのです。
しかし、そのように神が沈黙しているように見える現実にあっても、神を畏れる信仰が必要であるというコヘレトの信仰的確信を、12節b~13節が伝えています。ボンヘッファーも同様に、神の御旨を感じることができなかったナチス時代であっても、しかしだからこそ、「神の前で、神と共に、僕(しもべ)たちは神なしに生きる」(『ボンヘッファー選集(5)抵抗と信従』253ページ)と書いているのではないでしょうか。
現実世界での応答
15 そこで、私は喜びをたたえる。太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに、人に幸せはない。これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に、伴うものである。
この内容のフレーズは、今までにも何回かお伝えしてきました(第4回、第5回、第6回、第9回)。しかし、前述したように、コヘレトの言葉が「来世への希望を語る『黙示思想』とは異なり、『今この時を生きる者として、神に応答していこうとする文書』」であるとすると、これらのフレーズは、やはり抗黙示思想なのだと思います。
神が沈黙しているように思える不条理な今この時にこそ、来世への希望という逃避ではなく、この現実世界で、神としっかりつながっていることが大切だと伝えているのだと思います。
神の業の不可知性
16 私は知恵を知るために心を尽くし、地上でなされる人の務めを見ようとした。昼も夜も、見極めようとして目には眠りがなかった。17 私は神のすべての業を見た。太陽の下で行われる業を人は見極めることはできない。人が探し求めようと労苦しても、見極めることはできない。たとえ知恵ある者が知っていると言っても、彼も見極めることはできない。
コヘレトはここで、「神の全ての業を見たが、それを見極めることはできないし、知者もそれを見極めることはできない」と伝えています。それは、神の業の不可知性、つまり人知では知り得ない神の性質を語っているのです。私には、この不可知性がヘレニズム思想(第1回参照)と響き合うように思えます。
本コラムは、コヘレトの生きた紀元前3世紀に広く行き渡っていたヘレニズムの背景を踏まえて執筆しています。私は、彼がヘレニズムに抗しながらも、部分的にはそれを受容していたのではないか、という見方をしています。その観点からすると、コヘレトの言う不可知性と、懐疑派の始祖であるピュロン(紀元前360年ごろ~270年ごろ)の不可知論は、いずれも人間の知の限界を示すものとして共鳴しているように思えます。
使徒言行録17章23節に、「『知られざる神』と刻まれている祭壇」が伝えられていますが、これは、それ以前の古代ギリシャの神々の中に、人間には知り得ない「不可知性の神」の存在があった可能性を示唆しています。パウロはその存在こそが、「世界を創造し、キリストを死者の中から復活させた神」であると説いています(同24~31節)。
コヘレトは、10~14節で示されている不条理を、「それがある故に神は存在しない」とするのではなく、神の業の不可知性の故に、与えられた日々としてそのまま受け止めています。そこに、コヘレトとヘレニズム思想との響き合いを感じるのです。
カミュの『ペスト』と併せ読む
今回の箇所は、アルベール・カミュの著作『ペスト』と併せ読むのが良いと思います。とっつきにくさを感じる人は、私もそうしましたが、同書を解説するNHK「100分de名著」ブックスシリーズの『果てしなき不条理との闘い』や、岩波ブックレットの『われ反抗す、ゆえにわれら在り』を副読本とするのがよいでしょう。前者は、新型コロナウイルスのパンデミックのさなかである2020年に出版されたものです。後者は、ボンヘッファーとカミュの関連を書き上げています。
『ペスト』は、その名の通り疫病のペストが、1940年代のある年の4月から、アルジェリアの港町オランで流行し、町全体が外部と遮断される内容の作品です。しかし、この時代にオランでペストが流行した事実はなく、むしろ不条理の時代を映し出す、寓意(ぐうい)的な小説といえるでしょう。コヘレトが伝えている、神が沈黙する不条理の世界と響き合う、近現代を舞台にした物語なのです。
この小説の中には、さまざまな登場人物が描かれています。その一人が、パヌルー神父です。彼は、ペストが蔓延するオランにおいて、2度の説教をしています。5月の最初の説教では、この災禍は人間の罪に対する報いであるとして、人々に悔悛(かいしゅん)を求めます。この段階では、彼はまだ不条理と真に向き合ってはいなかったように思えます。
ペストは蔓延を続け、夏になると多くの人が亡くなっていきます。そんな中でパヌルー神父は、判事のオトン氏の小さな息子の死に立ち会うことになります。ここで彼は、不条理と真に向き合うようになります。秋になったある日、パヌルー神父は2度目の説教をします。それを、この小説の主人公である医師のリウーが、次のように要約しています。
闇のなかを、やみくもに※、前進を始め、そして善をなそうと努めることだけをなすべきである。しかし、その他の点に関しては、これまでどおりの態度を守り、また自ら納得して、すべてを、子供の死さえも、神のみ心に任せ、そして個人の力に頼ろうなどとしないようにすべきである。(『ペスト』336ページ)
1度目の説教で、観念的な懲罰神学を語ったパヌルー神父が、オトン少年の死に接して不条理と向き合い、2度目の説教では、神の業の不可知性の中に踏みとどまって生きていくことを説くのです。そして、パヌルー神父は、説教の最後部を「神への愛は困難な愛」だと語ることで始めます。
その後の展開は、ぜひご自分で読んでいただければと思いますが、コヘレトの言葉の今回の箇所と大変強く響き合っています。私たちはつい最近、新型コロナウイルスのパンデミックという不条理を経験しました。あのような時に、私たちがどう生きるのか、どのように信仰を持続するのか、それをコヘレトは示唆しているのではないかと思います。(続く)
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