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神声人語―御言葉は異文化を超えて―(20)比喩もなく既成の表現もないとき 浜島敏

2017年5月12日06時51分 コラムニスト : 浜島敏 印刷
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ところで、比喩もなく既成の表現もないとき、その対策はどのようにしたらよいのでしょうか。その答えは「説明せよ」ということです。これはいずれの言語でもなされることです。

ペルーのケチュア語族のワヌコ語では、「神を試みてはならない」(マタイ4:7)に相当する表現が今のところありません。この人々は、今まで聖書的な意味でこの問題を考えたことは、おそらくないのです。

現行の翻訳は、このくだりをなかなかうまく説明しています、すなわち「あなたの欲することを無理に神にさせようとするな」とあります。この訳文は、「神を試みる」という英語よりも意味が深いのです。というのは、英語の「試みる」という語は、罪へ誘うという意味が強すぎますが、マタイによる福音書4章7節の真意は、神を強要してはならない、ということだからです。

インドシナ半島の黒タイ語には、「新生」を説明する方法が見当らないようでした。「新しい」という語が、「生まれる」と一緒にはどうにも使えなかったのです。それでも宣教師たちは、この問題を「新しい心を受け入れるための誕生」という句を用いて解決しました。考えてみれば、これこそ「新生」の元来の意味です。問題は、2度生まれるということではなくて、新しい性質をもって生まれる、ということなのです。

宣教師たちがアルファベットを制定したり、文法を分析するには、2、3年もあれば十分です。だが言語の精髄──その豊富な慣用の宝庫──に入ってゆくには、長い年月を要します。ぎこちない、血の通わない翻訳をするのに手間はかかりません。が、人々にしみじみと語り掛ける翻訳は、売り買いに使用するだけの皮相な言語でなくて、心に触れる、含みのある言葉を使わなくてはなりません。

エチオピアに近いスーダンのウドゥク語では、「いらぬお世話だ」という意味の慣用句を英語流に訳すこともできますが、ウドゥク流の表現では、「自分の小屋の日かげに座ってろ」としなくてはなりません。つまり、おせっかい者になって、やたらによそ様のことに首をつっこむな、ということです。

ンゴク・ディンカ語では、文字通り、「この世のならわしに従い歩く」(エフェソ二・二)と訳すこともできますが、直訳すると「この世という場所に座る」となるンゴグ・ディンカ語に比べると、数段劣ります。「歩く」という語は、行為となんら比喩関係を持ちませんが、「座る」には、これがあります。

バリエンテ語では、「夕方」を訳して「日没後」と言うことができますが、ぴったりとしたバリエンテの慣用句では「その日の精」となります。ボリビアの風吹きすさぶ高地で用いられる現地語の1つアイマラ語では、湖の岸は「湖の唇」となります。シピーボ語では「雲」は文字通り「空の煙」であり、そうかと思うと、コロンビア北部のゴアヒロ語では、晴れた空は「青い雲」であるといった具合です。

現地語の慣用句の多くは、さまざまな神話の信仰を反映しております。オートボルタ(現ブルキナファソ)のモシ族は、月食を「猫が月を食べる」と言っておりますが、ニカラグアのミスキート族は、「月が義母に掴みかかっている」──そしてやっつけられているようだ──と主張しています。

しかしながら、私たちはこのような慣用句に、この人たちの信念がそっくりそのまま表されていると考えてはなりません。サン・ブラス人は、レプラを「へびに咬まれた病」と称しております。彼らは、レプラがへびに咬まれてかかる病でないことをよく承知していますが、この慣用句は固定しております。それが科学的に正確であるなどと言う人はいませんが、ちょうど devil's food cake(悪魔の菓子──チョコレート・ケーキの一種)が、私たちの信念を反映するものとして額面通りに受け取るべきなどと考える人がいないのと同じです。

土着の慣用句にもまたユーモラスなひらめきのあるものがあります。たとえば、ウドゥク語は、Adam's apple(アダムのりんご──のどぼとけ)を「ビールを欲しがるもの」と呼んでおります。

1つの言語をだんだん深く学んでいくにつれ、またその言語が代表している文化──言語は生きた文化の一部をなしていますが──の光に言語を照して解釈していくにつれて、学び始めのうちは矛盾だらけで、とてもあり得ないことに思えたその言語の特性のあれこれが、次第に理解できるようになってきます。

コロンビアやベネズエラの荒涼とした山岳地帯の辺境に、対立しつつ分散して群居しているモチロン族に etokapa という語がありますが、これを彼らは全く異なった3つの意味に使っています。すなわち、① 自殺をする、② きびもちを作る、③ 卵をかえす、がそれです。

それぞれの意味は明らかに相互に関係を持ってはいません。が、モチロン族の人たちはこれら3つの異なった意味に用いられている etokapa なる語が、正真正銘の同一語であると主張しており、事実またその言い分にも理があるようです。モチロン文化を研究するにつれて、これらの単語の間に、非常に緊密な関係のあることが明らかになるのですが、それはこの3つの行為はすべて卵形物体に関係があるからです。

人が死ぬとその死体は卵形をした包装にくるみ、小屋の床土に埋めて腐敗させます。そして3年もたつと骨を堀りあげて、また楕円形の包みにくるんで遠い山のほこらに安置するのです。きびもちは、手で卵形のだんごにまるめてふかします。もちろん三番目の卵をかえすというのは、上述の2つのことと容易に結びつきます。

この etokapa という動詞の基本の意味は「卵形の対象と関連のある行為」であります。このことさえ理解できれば、一見互いに関連のなさそうな意味を持った語と語の関係が明白になってくるのです。

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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏

ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』

世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。

宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。

本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。

ユージン・ナイダ

浜島敏

浜島敏(はまじま・びん)

1937年、愛知県に生まれる。明治学院大学、同大学院修了。1968年4月、四国学院大学赴任。2004年3月同大学定年退職。現在、四国学院大学名誉教授。専攻は英語学、聖書翻訳研究。1974、5年には、英国内外聖書協会、大英図書館など、1995、6年にはロンドン大学、ヘブライ大学などにおいて資料収集と研究。2006年、日本聖書協会より、聖書事業功労者受賞。2014年7~9月、ロンドン日本語教会短期奉仕。神学博士。なお、聖書収集家として(現在約800点所蔵)、過去数回にわたり聖書展示会を行う。国際ギデオン協会会員。日本景教研究会会員。聖書の歴史、聖書翻訳に関する著書・翻訳書、論文多数。

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