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ヘルマン・ヘッセの宗教観―《魂の漂泊者》にみる宗教的遍歴―(1)

2011年12月16日18時18分 印刷
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+日本福音ルーテル小石川教会  板倉素子氏

[はじめに]
これは2010年11月8日に、宣教ビジョンセンターの研究会で担当した「ヘルマン・ヘッセとキリスト教」のまとめである。ヘッセの場合後述するようにキリスト者であり続けたのであるが、その宗教観と思想は多分に東洋的宗教の影響を受けており、正統主義のキリスト者からは異端視されかねない程で、事実当日の参加者(信徒)からは「もっとキリスト教中心の話だと思った…」との声も聞かれたので、本誌に寄稿するにあたり表題に変更を加えることとした。

筆者がヘッセと関わったのは、今を去ること50年、将来の専門を比較文学・比較文化に決めて、少なくとも2ヶ国語の外国語をマスターする必要に迫られて入学した大学のドイツ文学科で、卒業論文のテーマに選んだ作家だったからである。その後大学院では英文学を専攻し、高校教員としては英語を担当、大学に転じてからは主として比較文学と異文化コミュニケーションを講じて来たから、今更ヘッセの専門家などとは口が裂けても言えない立場である。言わば「昔とった杵柄」でお引き受けしたに過ぎない。

されど、である。改めてヘッセを紐解いてみると、死後半世紀を経ようというのに、その思想の広さ深さに感嘆せざるを得ない。いや、21世紀の今こそ、そして東日本大震災を経験して、人生観・自然観の価値の転換を迫られる時代だからこそ、異なる思想や文化を超克し統合して、人類の幸福と平和を一貫して願い続け、ノーベル文学賞と西ドイツ平和勲章に輝いたヘッセに、学ぶべきことは多いと信じるのだ。

ヘッセの思想はヘッセ自らが作品の中で、あるいはエッセイや書簡の中で、雄弁に語っている。従って本稿は論文というよりも、ヘッセの資料紹介のような体裁をとることになった。構成も章建てを特にせず、ヘッセの宗教観を理解するためのキーワードで項を建ててみた。ご理解を賜りたいと思う。

ヘッセと言えば『車輪の下』を思い浮かべる方が多いと思う。教科書にも紹介されたりしたロマンチックでセンチメンタルな青春ものである。しかし、弱冠29歳で著したこの作品でヘッセが語られるとしたら誠に残念なことだ。少なくとも「不惑の歳」である40代以降の『デーミアン』『シッダールタ』『荒野の狼』『ナルチスとゴルトムント』、そして難解ではあるがノーベル賞受賞の契機ともなった大作『ガラス玉遊戯』に、ヘッセの思想と哲学を是非とも探して戴きたいと思う。
尚、ヘッセの作品をお読みになりたい向きには、最近「日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会」が編訳監修した「ヘルマン・ヘッセ全集」(臨川書店)がエッセイ集の一部を除いて完結したことをご紹介しておきたい。かつては高橋健二氏の全集が定本とされたが、もはや古書店でしか手に入らない。但し、本稿の作品名には、最も一般的に定着していると思われる邦題を使用した。また、年表や家系図なども掲載したいところであるが、紙幅の関係で困難であったので、当日の参加者にはハンドアウトでお渡ししているし、ご希望の方には教会経由でご連絡を戴ければ郵送申し上げることで、お許しを願いたい。

[成育歴と家族の影響]

1)家族構成

へルマン・ヘッセは日本の「西南戦争」の頃、1877年7月に南ドイツのシュワーベン、カルヴに生まれた。父ヨハネスはドイツ系ロシア人で国籍はエストニアにあり、スイスのプロテスタント伝道師としてインドで布教活動に従事していたが、病を得て故国、カルヴの地でグンデルトの新教出版事業を手伝ううち、27歳にしてグンデルトの娘、32歳のマリーと結婚した。ヘルマンには2歳違いの姉アデーレ、2歳下の妹マルラ、4歳下の弟ハンスがいた。

祖父ヘルマン・グンデルトは、スイスのプロテスタント敬虔派の伝道師としてインドに渡り、病気のために帰国して出版事業を主宰していたから、父ヨハネスと極めて似通った人生だった。グンデルトは神学者として、聖書のインド語翻訳、マラヤム語辞典の編纂なども行った。

母マリーはインドで生まれドイツで教育を受けた後、再びインドで布教を手伝い、病に倒れた父グンデルトと共に帰国、英国人宣教師と婚約し三度インドに赴いて結婚し、インドでの布教に共に身を捧げる決心をしたが、赤痢に感染した夫と2児を伴い帰国、すぐに夫に先立たれて28歳にして未亡人となったから、ヨハネスとは再婚であった。

2)キリスト教敬虔主義との葛藤

プロテスタント敬虔主義の伝道師にして神学者だった祖父、共に伝道師だった両親のもとで、幼い時から宗教的家庭教育を受け、長男として将来神学者になることを期待されたヘルマン・ヘッセは、ラテン語学校を首席で卒業後マールブロンの修道院にある神学校に入学させられた。無論本人の意思ではない。抑圧からの解放、自由への希求から、青春のヘッセは酒や煙草をたしなみ、悪友とツルンでは非行に走り、嘘を繰り返し、果ては自殺をほのめかしたり、学校の寮からの脱走を企て、ついに退学処分を受けるに至る。脱走の際は次の授業科目の教科書を小脇に抱え、寮を振り返り窓辺にいた同級生に軽く手を挙げて、雨の中を一人森の中へと消えて行ったという。全校あげての大捜索の末、森の中で意識を失って発見された。精神的な病気を疑われて、治療のためにブルームハルト牧師のもとに預けられたが心を開くことはなく、拳銃を手に入れて自殺未遂事件を起こし見放される。

こうした当時の体験が『車輪の下』に結実したことは想像に難くない。

3)別離体験

前述のとおり母マリーは最初の夫と若くして死別し、父ヨハネスとは再婚であった。ヨハネスの実母である祖母は6児を出産後早世しており、再婚した2番目の祖母も2児を産んでから早世している。ヘッセの2歳下の妹と更に2歳違いの弟の間には、死産に近い状態の2人のきょうだいがいた。後年ではあるが弟ハンスはヘッセが59歳の時に自殺している。14歳の少年時代に両親と離れて送った寮生活、治療目的とはいえブルームハルト牧師に預けられての家族との別離も、ヘッセの青春に暗い翳を落としたであろう。16歳の時尊敬し慕っていた祖父グンデルトが他界、25歳の時には母マリーも他界した。ただ母は最後までヘッセの詩作や文学活動には反対であったから、母の死で桎梏から解放され作家としての人生の自由を獲得したことも事実である。

やがてヘッセ自身もバーゼルの名門の出であるマリア・ベルヌイと結婚したが、病気がちなこともあって40代で別居し、3人の息子たちを他家に預けた。そして46歳の時正式に離婚、翌年女流作家の娘ルートを第2の妻としたが僅か3年で離婚、その4年後にオーストラリア人で美術史家の第3の妻ニノンと再婚するのである。

こうして見て来ると、ヘッセの生涯は決して家族関係に恵まれたとは言い難い。当時の
平均寿命を勘案しても、早い死と別居・離婚に人一倍遭遇していると言えよう。

4)家族の精神病・鬱病

冒頭に掲げたのは、私が好きなヘッセの写真で、ガーデニングをこよなく愛する老年時代の穏やかな表情をしているが、実は若い頃のヘッセはひどく神経質そうな表情を見せている。事実ヘッセの家系には精神の病を患った者が多かった。先ず父ヨハネスは40代半ばで鬱病のため入院をしている。母マリーも神経症と坐骨神経痛に悩まされていたようである。母の病と60歳そこそこでの死の原因が自分にあると考えて、ヘッセは悩ましい思いを生涯抱いていたようだ。弟ハンスも長年にわたる精神的な病の後に自殺しており、最初の妻マリアは40代から精神病傾向に陥った。三男マルティンも幼児期に重病を患うが、その症状は精神性の発作のように思われる。

神学校の寮生活から脱走を企て、自殺さえ試みたヘッセの青春は、既に神経症の成せる業であった可能性が高い。早くも20代後半から視力の低下に悩まされ、リュウマチや坐骨神経痛に苦しんで、ヘッセは39歳の時にゾンマットの療養所で精神分析医ラングの治療を受け、フロイトなどの精神分析学に親しむ機会を得た。その知識と体験は作品のそこかしこに現れている。

良く言えばデリケートな精神の家系に生まれ育ったヘッセであるが、前述の葛藤や別離とその相剋が、研ぎ澄まされた繊細な精神によって濾過され、昇華されて、ヘッセの作品を創り上げて来たと言うことができよう。

5)多国籍体験

ヘッセの祖父と両親がインドで布教する伝道師であったことは前述のとおりであるが、父ヨハネスはエストニア国籍で出生し、ドイツとロシアの血を引いており、36歳になってスイス国籍を取得した。父方の祖父カール・ヘルマン・ヘッセは、ロシア国籍のドイツ人だった。母マリーはインドに生まれドイツに学び、イギリス人を最初の夫にして共にインドで伝道の業に励み、夫の病後は実父グンデルトのもとで南ドイツに暮らし、ヨハネスと再婚して3児を出産後はスイスに移住した。

そしてヘッセ自身は南ドイツに生を受け、4歳にして両親と共にスイスに移住、9歳の時に母方の祖父の住む南ドイツの生地に帰り、ドイツとスイスで書店員・機械工として働きつつ、創作活動に入って行く。結婚後好んで暮らしたボーデン湖は、ドイツ・オーストリア・スイスの3ヶ国にまたがる湖として知られている。やがて3児をもうけると家族と共に再びスイスに暮らし、スイスの国籍を取得した。

国境はあっても陸続きのヨーロッパにあって、複数の国に活躍の場を持って移動することはさして珍しいことではないにしても、ここまで多国籍な家族を持つ人生はそう多くはないと思われる。ヘッセが異なるものを受容し、統合する思想を抱く一つの要因と言えよう。

6)インドへの憧憬

ヘッセは幼いころから祖父の書斎が大好きだった。そこには異国、特にインドを中心とした東洋の珍しい品々があり、一種神秘的な雰囲気を醸していた。長じてそれらの書籍はヘッセの教養を育み、インド密教の秘密めかしい装飾品や道具類は、ヘッセの魂をインドへといざなった。しかし実際にインド旅行を計画するのは34歳になってからで、友人である画家のハンス・シュトルツェンガーとセイロン、マレー、スマトラを経てインドを訪れる予定だったのだが、途中で体調を崩し肝心のインドを諦めて帰国の途に就かざるを得なかったのである。しかしこの旅行をとおして、知性による理解とは程遠く、庶民生活に根を下ろす東方の信仰に心動かされ、単なる「インドへの憧憬」から脱却したヘッセは、「自己の道」を探る「内面の旅」へと向かうことになる。それは西洋と東洋を融合させる試みであった。

ヒンズー教やモハメッド教徒、仏教徒など、あらゆる人々が宗教的な行を営んでいるのを見るのは美しく、また考えさせられることであった。彼らは皆、都会の裕福な財産家から苦力やバリア(*インドの下層カーストの一つ。陸上労働者階級に属する)に至るまで、宗教を持っている。

その信仰は低俗で腐敗し、表面的で粗野であるけれども、太陽や大気のように力強く遍在しており、生の迸り、不可思議な雰囲気なのだ。(“H. Hesse Gessammelte Dichtungen Bd.Ⅲ”Suhrkamp,1952 拙訳) (続きはこちら
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板倉素子(いたくら・もとこ):東京教育大学(現・筑波大学)文学部、早稲田大学大学院卒、International Mentorship Graduate School 卒、文学修士。現在日本福音ルーテル小石川教会会員、千葉経済大学短期大学部 名誉教授。国際メンターシップ協会認定チーフエグゼクティヴ・メンターとして、カウンセリング、メンタリング、各地のセミナーや研修会を担当している。 

(本稿は日本福音ルーテル教会東教区-宣教ビジョンセンター紀要-『教会と宣教』第17号に掲載されたもので、筆者の同意を得て転載しています。)

〈引用について〉
・文中(拙訳)と記されているものは、ドイツ Suhrkamp 社の原典を筆者が訳したものである。
・一部原典の入手が困難だったものについて、「日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会」から刊行された「ヘルマン・ヘッセ全集」1~16(臨川書店 2005-2007)、「ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集」1~8(臨川書店 2009~)の訳をお借りした。

〈参考文献〉
ラルフ・フリードマン(藤川芳朗 訳)『評伝 ヘルマン・ヘッセ』上・下(草思社 2004)
秋山六郎兵衛「ヘルマン・ヘッセ全集 別刊」『ヘッセ研究』(三笠書房 1941)
高橋健二『ヘルマン・ヘッセ研究』(新潮社 1957)
相良守峯「ヘルマン・ヘッセ全集 別刊」『ヘッセ研究』(田園書房 1966)
佐古純一郎『ヘルマン・ヘッセの文学』(春秋社 1992)
中村元『東洋人の思惟方法』1~4(春秋社 1941-1942)
金倉圓照『インド哲学史』(平楽寺書店 1962)
板倉素子『ヘッセにみる宗教的遍歴』(「商経論集」-千葉経済大学短期大学部紀要- Vol.9 1976)
板倉素子“Das religiöse Feld in den Werken Hermann Hesses -Die Begegnung des Christentums mit der indischen Religion-”筑波大学(旧東京教育大学)提出・卒業論文(1963)

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