2025年6月26日16時50分

コヘレトの言葉(伝道者の書)を読む(6)神の御手の内にある死という運命 臼田宣弘

コラムニスト : 臼田宣弘

石を投げる時、石を集める時

今回は、3章18~22節を読みます。その前に、前回触れた5節前半の「石を投げるに時があり、石を集めるに時がある」について、私が考えていることを記しておきます。

石を投げるという行為は、戦場における攻撃を意味していると考えられます。古代の戦争は、投石が基本でした。歴代誌下26章14節には、「ウジヤは全軍のために盾、槍(やり)、兜(かぶと)、鎧(よろい)、弓、投石用の石を準備した」とあります。また、少年ダビデがゴリアトに向かって取った行為を考えてみればよいと思います。石を投げる器具には、ダビデが使ったスリングという個人用のものと、てこの原理を利用したカタパルトという大掛かりな兵器とがありました。

「石を投げる」とは、戦場においてこれらの器具を用いて石を投げることを指しているといってよいでしょう。コヘレトの時代のイスラエルは、エジプトを支配していたプトレマイオス1世によって軍事侵攻され、その占領下にありました。石を投げるという戦闘行為、つまり、破壊的行為がなされた「時(エート/ עֵת)」があったのです。

一方、「石を集める」とは、石造建築を指していると考えられます。特に当時のイスラエルは、プトレマイオス朝の農業政策を受け、灌漑(かんがい)施設が建築されていましたので、そのことが念頭にあったと思います。ゼノン文書(第1回参照)には、エリコに大規模な灌漑施設が建築されたことが記されています(Y・アハロニ、M・アヴィ・ヨナ著『マクミラン聖書歴史地図』113ページ)。

コヘレトの時代のプトレマイオス朝の灌漑事業を中心とした水利政策について短くお伝えします。プトレマイオス1世がプトレマイオス朝の成立を宣言したのは紀元前305年ですが、同282年に息子のプトレマイオス2世に完全譲位されました。そして、同275年ごろ、プトレマイオス2世の姉であるアルシノエ2世が、近親婚によって妃となり、彼女が死去する同286年ごろまで、この夫妻による統治が続きます。

この時代に、もともとナイル川の氾濫を防ぐために灌漑技術が発達していたエジプトにおいて、ギリシャの数学術などが加わることによって、特にナイル川支流のファイユームという地域において、水利政策が進んだのです。そして、アルシノエ2世死去後は、彼女の神格化の旗印として、この政策がさらに進められました(ブレンダン・ハウグ、高橋亮介訳「水を統治する―前近代ファイユームにおける灌漑と国家―」5ページ)。なお、プトレマイオス2世の農業・水利政策については、5章7~8節を読むときにもお伝えします。

この政策は、侵略地であるイスラエルにも及び、前述したように、エリコにも灌漑施設が建築されたのです。「石を集める」とは、その灌漑施設建築のために石を集めたことではないかと私は考えています。そしてそれは、創造的行為であったのです。

ひるがえって、「石を集める」という創造的行為は、戦争によって破壊された地域が、再創造されるというような意味合いも持ち合わせているのではないかと思います。「石を投げる」というプトレマイオス1世による破壊的行為によってダメージを受けた時もあるが、その次の王であるプトレマイオス2世の施政によって、ヘレニズム文化がイスラエルに創造をもたらしたということを、コヘレトが認めているように思えるのです。

「石を投げるに時があり、石を集めるに時がある」は、特にプトレマイオス王朝による侵略とその後の施政について、破壊と創造という観点で対置させているのではないかと私は考えています。そして、コヘレトは、イスラエルが他国の支配下にあることも神の御手の内のことであると捉えているように思えます。

コヘレトの思想の一つに「神の御業の絶対肯定」があります。8章9節には「今は、人が人を支配し、災いを招く時代(エート)」とあり、これはプトレマイオス朝によるイスラエル支配のことをいっているとされます。生きている時代がどうであれ、コヘレトはその時代の様を、神の御業として絶対的に肯定しているのです。「石を投げるに時があり、石を集めるに時がある」も、プトレマイオス朝による支配を神の御業として肯定し、そこにおいてなされている文化的影響力を是認しようとしているのではないかと私は考えています。

人の子と動物の運命

では、コヘレトは神の御業をただ単純に喜んでいるのでしょうか。それが次に読む3章18~22節のテーマであると思います。それではそこを読んでみましょう。

18 私は人の子らについて心の中で言った。「神は彼らを吟味し、動物にすぎないことを見極めようとする。」 19 人の子らの運命と動物の運命は同じであり、これが死ねば、あれも死ぬ。両者にあるのは同じ息である。人が動物にまさるところはない。すべては空である。20 すべては同じ場所に行く。すべては塵(ちり)から成り、すべては塵に帰る。21 人の子らの息が上へ昇り、動物の息が地に降ると誰が知るだろうか。

コヘレトは心の中で、「神は彼ら(人間)を吟味し」と言い出します。ただ、その後の「動物にすぎないことを見極めようとする」とある「見極めようとする」は、誰が見極めるのかで意味が変わってきます。聖書協会共同訳は、「見極めようとする」主体を神として訳しています。

しかし、他の多くの訳は、「(神は)人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせる」(新共同訳)か、これと同様な意味で訳しています。私も、コヘレトが観察しているという文脈では、「人間」であるコヘレトが見ているのですから、「(神は)人に、自分が動物にすぎないことを気付かせる」という内容であると考えます。

19節は、原文では理由を示す「キー / כִּי」という言葉が最初に記されますが、聖書協会共同訳はそれを訳していません。新改訳2017は訳しており、19節は「なぜなら」で始められています。つまり、19節は18節を説明している文であり、両節は一体なのです。

この2箇所を修正すると、18~19節は次のようになります(下線部が修正箇所)。

18 私は人の子らについて心の中で言った。「神は彼らを吟味し、人に、自分が動物にすぎないことを気付かせる。」 19 なぜなら、人の子らの運命と動物の運命は同じであり、これが死ねば、あれも死ぬ。両者にあるのは同じ息である。人が動物にまさるところはない。すべては空である。

人の子と動物の両者に死という運命が同じく訪れるという捉え方は、ヘレニズム的と見ることも可能ですが(第4回参照)、21節までの文脈を考えると、これはヘブライズム的です。しかしコヘレトは、19節の最後で「すべては空である」としています。コヘレトはこれまで、円環的なヘレニズム的世界観において「すべては空である」としていたのですが、それがヘブライズム的世界観にまで及んでいることになります。

コヘレトは1~17節で、全ては神の御手の内にあるということを強調していましたが、その神の御手の内にある死という運命は「空(へベル / הֶבֶל)」なのです。そのニュアンスは、日本古典文学における「儚(はかな)い」がふさわしいのではないかと、第2回でお伝えしました。19節の「すべては空である」は、まさにこのニュアンスがぴったりではないかと思います。

確かに、死はヘベルだけれども、その向こうにそれを超えるものが見通されているのです。それはあたかも、源氏物語の主人公・光源氏の妻である紫の上が、自身の死を感じながらも、一輪の萩(はぎ)の花を取り巻く情景の美しさを見通しながら、歌を詠んでいるのと共通していると思うのです。ですから、私はヘベルを「儚い」と訳すべきだと思うのです。

ヘベルを超えるもの

そして、へベルを超えて見通されているものが、22節で伝えられています。

22 私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。それがその人の受ける分なのだから。彼の後に起こることを、一体誰が彼に見せることができようか。

ここには「食べて飲む」ことは記されていませんが、2章24節と3章12~13節の内容と似ています。どんな状況に置かれていても、「今この時」に神からプレゼントを頂いてそれを喜ぶという、コヘレトが最も大事にしている考え方です。

コヘレトの時代、イスラエルはプトレマイオス朝に支配されていました。しかし、彼はそれを受け入れ、その状況の中で幸せを見いだそうとしたのです。ヘレニズム的な社会に問題があるとしても、灌漑施設ができ、農場にはブドウの木が実っているではないか。それを神からのプレゼントとして喜んで頂こうではないか。そんな気持ちが伝わってきます。

それと同じように、動物と同じ死を迎えるという現実があったとしても、今生きているこの人生の日々を楽しもうではないか。儚い人生だけれども、そこに幸せがあるではないか。それが、コヘレトの言葉の大切なメッセージなのです。(続く)

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臼田宣弘

臼田宣弘

(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。