2009年6月6日08時02分

植竹利侑牧師「現代つじ説法」(3)・・・感動の結婚式

コラムニスト : 植竹利侑

今年も秋がきて、結婚のシーズンを迎えた。もういくつかの式を教会で挙げ、司式をさせていただいた。そのたびに、当事者の新郎新婦より、両親より、むしろ私のほうが深く感動し、声をつまらせ、涙が出てしまうことが多い。私の生涯では、もう二百組もの式を挙げてきたが、ただの一度もそのような感動なしに司式をしたことはなかったと思う。なぜそんなに感動があるのかといえば、結婚こそ、人生の奥義であり、その人たちの生涯における最大の転機であり、祝福であるからである。私はいつも式の前に若い二人に二つのことを話す。

「結婚とは、一人の男子と一人の女子が互いに選びあい、これからは二人で一つの人生を生きてゆきましょうという、契約を結ぶことです。契約を結ぶということは、感情や気分の問題ではなく、意志の問題です。たとえば、あなたがたは互いに好きでいっしょになろうと決心したでしょう。たしかにきらいなのに結婚するのは不自然です。好きな者同士が結婚するのが当然です。

しかし、よく考えてみてください。好き、というのは自分の好みにあったという、きわめて自己中心の感情です。いっしょになって、好みにあわないところを発見したり、もっと好きな人が現われれば、きらい、という感情に変わってしまいます。しかし、愛というのは感情ではありません。意志です。愛する、ということは責任をもつ、ということです。全人格を挙げて、二人で一人になりましょう。一つの人生を歩みましょう、という、責任ある決断をすることです。そのあとに、困難や不幸が生じても、そんなことは問題ではありません。二人で対処してゆけばよいのです」

もう一つ。「本人にその信仰があろうとあるまいと、結婚とは本来、創造者なる神の意志によって導かれているものです。司式をする私に、この結婚は神によって祝福されている!という確信がなければ、司式をすることは嘘になります。私は商売で司式しているのではない。ほんとうに神の導きと祝福を信じ、心をこめて指導もし、式も行ないます。だからあなたがたも、生まれてからこのかた、こんなに真剣になったことはない、というほどの真実さで、神と会衆の前で愛することを誓いなさい」ということである。その他もろもろの話をしたうえで、結婚式の当日を迎える。

二人の人生に幸あれと、熱い心で祈るので、感動なしにはおれないわけだ。

(中国新聞 1982年9月28日掲載)

(C)新生宣教団

<<前回へ     次回へ>>

◇

植竹利侑

植竹利侑

(うえたけ・としゆき)

広島キリスト教会名誉牧師。1931年東京生まれ。東京聖書神学院、ヘブンリーピープル神学大学卒業。1962年から2001年まで広島刑務所教誨師。1993年矯正事業貢献のため藍綬褒章受賞。94年特別養護老人ホーム「輝き」創設。著書に『受難週のキリスト』(81年、教会新報社)、『劣等生大歓迎』(89年、新生運動)、『現代つじ説法』(90年、新生宣教団)、『十字架のキリスト』(92年、新生運動)、『十字架のことば』(93年、マルコーシュ・パブリケーション)。(2019年1月26日死去、プロフィールは執筆当時のものです)