
エーゲ海に面したテサロニケは、ミラよりももっとにぎやかな港町であった。町の中央広場には多くの人が行き交っている。海側から北西に向かって細い路地が伸びており、そこをたどっていくと、再建途中の教会堂があり、中から賛美の歌声が流れてきた。
壁が半分しかできていない会堂の中には、クリスチャンが集まり、集会が行われている様子だ。中に入ると、ニコラスは一目でルキオを見つけることができた。痛々しいほどやつれ、首に大きな傷跡があったが、その顔は平安と喜びに満たされていた。彼も同時にニコラスを認め、微笑しつつうなずいた。
礼拝が終わり、この教会の監督となったソステネが祝祷をすると、人々はそれぞれの家に帰っていった。「ニコラス様。よく訪ねてくださいました」。ルキオは、両手を広げて駆け寄ってきた。2人は堅く抱き合った。
「ルキオ。よく無事でいてくれましたね」。「ニコメディアの獄で、この通り拷問を受けましたが、その後、身柄をテサロニケの役所に移されました。妻のオルンパは、獄中で天に召され、監督のヤソン先生は殉教なさいました。この町の総督はローマ人ですが、心の広い寛容な方で、私と少数の信徒は釈放され、この場所にテントを張って密かに礼拝を守っておりましたが、あのコンスタンティヌス大帝の勅令によって教会堂がここに建てられることになったのです」。「あの偉大な皇帝の上に神様の祝福がありますように」
いつの間にか彼らの背後に監督のソステネが立っていてこう言った。「あの方は、キリスト教を公認することによって福音を全世界のものとし、それだけでなく東西に分裂して死にかけていたローマをも救ったのですから」
集会が終わったので、集まっていた30人ほどの信徒は、それぞれの家族のことや生活について語り合ったり、談笑したりした後、散っていた。その時、突然子どもの声がした。
「あっ、この人知ってるよ。お菓子を配る司教様だ!」「そうだ、お父さんが言っていた人だよ!」そして、4、5歳くらいの男の子がニコラスに飛びついてきた。
「これこれ、教会の中で騒いではいけないと言ったろう。さあ、帰るよ」。濃いひげをたくわえた男が、2人の子どもの手を引こうとして、驚いたように言った。「ニコラス様! ニコラス司教様じゃありませんか?」
何と懐かしい再会だろうか。それはミラの教会に赴任したころ、5歳くらいだった漁師の息子マテオの成人した姿だった。
「両親とも亡くなったのでこの町に住みつき、船着場で働いています。結婚してこの通り息子も授かりました。ネレオとヌンパは母親がやっていた網繕いの仕事を継いで、この町で店を出していますよ」
そして彼は、自分の息子と並んではにかむように笑っている男の子を顧みて言った。「ネレオも所帯を持ちました。これが彼の子です。うちの子と同じ歳で、彼らは兄弟のように仲がいいんです」
思えば、あれから23年もの月日が流れていたのだった。「ニコラス司教様。よくご無事でこの町をお訪ねくださいました。そのうち余裕ができたら、ネレオの家族と一緒にミラへ帰ってみようと思います」。マテオは名残惜しそうにそう言って、2人の男の子を連れて帰って行った。
「バイバイ、司教様」。子どもたちは笑って手を振った。「今度ミラに行くから、海辺で遊ぼうね」。「ああ、そうしよう。その時は、袋にいっぱいお菓子を焼いて待ってるよ」。ニコラスも手を振って答えた。
ニコラスとアペレがこの町を出発しようとしていると、ダルマティアから来た旅人がこんな話をした。それによると、あの世界の人を恐怖に陥れたディオクレティアヌス帝が、重い病気で死にかけているという。
「――あの方は、近づく死を前にして、罪の赦(ゆる)しを得たいが、クリスチャンたちをあんな目に遭わせたので、罪の赦しを祈ってくれる者などいないと言って叫び、泣きながら転げ回っているとか……」。これを聞くうちに、ニコラスの心は憐(あわ)れみでいっぱいになった。
「帰りにダルマティアに出て、スプリトの皇帝の別荘に行ってみましょう」。彼は言った。皆は引き止めたが、ニコラスはアペレと共に翌朝早く、テサロニケを出発した。
*
<あとがき>
コンスタンティヌス大帝によってキリスト教が公認されると、各地に散らされていたクリスチャンたちが戻ってきて、教会も復興されるようになりました。ニコラスは、ミラの教会の修復工事が終わるまでの間、テサロニケに旅をすることにしました。
あのパタラの「家の教会」がディオクレティアヌス帝の迫害のために土台も残らないほど破壊されて以来、ずっと心にかけていたルキオが、テサロニケに落ちのびたことを聞いたので、彼の安否を確認したいと思ったからでした。
テサロニケの町に着いたとき、ニコラスは神の祝福がどれほど大きなものであるかを見ることができました。ルキオは無事で、そこには新しい教会ができていました。また、かつてミラの教会の日曜学校に来ていた子どもたちとも再会できたのです。
彼らは皆成人して、マテオは船着場で働き、結婚して子どもを授かり、ネレオとヌンパは亡き母が残した網繕いの仕事を引き継いで店を持ち、力を合わせて働いていたのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイで中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。