2025年10月15日17時51分

都合の悪いお言葉(その1) マルコ福音書10章1~12節

コラムニスト : 藤崎裕之

不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(86)

不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(86)

キリスト教は離婚を認めているのかいないのか、そんなことは私にはどうでもよいのであるが、夫が妻を離縁するというのは、どうにも穏やかなことではないように思う。離婚と離縁が同じものかどうかも不明であるが、夫に妻を離縁する「権利」というものがあるとしたら、それはどうにもこうにもキリスト教的ではないように思える。

このように書き始めると、ついヘンリー8世のことが頭に浮かぶ。彼はとにかく妻と離縁したかったらしく、理由には「お世継ぎ」の問題もあったらしいが、それだけではなかろう。

「何のために離婚するのか」という話題は社会学に任せるとして、どうやって離婚するのかというのは、案外と身近な問題として私たちを悩ませる。結婚の相談があれば(最近は全くないが)、離婚の相談もある。それは牧師をしているから経験するものではなく、普通に生活をしていたら誰もが直面するのではないだろうか。

それをキリスト教としてどう考えますか、と問われても良い答えがあるわけではない。なぜかというと、結婚にしろ、離婚にしろ、それはあくまでも個人の事柄であって、いわゆるセオリーというものはないからだ。

ファリサイ派がイエスに問うたのは、イエスを試すためであったということであるが、そこにどういう意図があったのだろうか。では、ヘンリー8世にどういう意図があったのか。歴史家はいろいろと探っているが、彼が属していたというか、その王位の後ろ盾になっていたカトリック教会では、妻を離縁することはまかりならんことであった。そこには当然、イエス・キリストの教えが反映されているが、聖書から読み取れることは、イエスは離婚という事柄の是非ではなく、男と女が結ばれることの「神意」を語っているのである。

興味深いのは「天地創造の初めから」と語られている点である。これは時間的な意味ではなく、まさしく「神意」であることを示すものである。解釈ではなく、事実である。人間が男と女であるという存在理由である。誰が男で誰が女かというのは、とてもデリケートだから無視するが、人間がたった一つの「性質」を持つ存在ではないということであろう。要するに違うということだ。単一ではない、そういう意味の男と女なのだ。これは神秘であって、生物学的な解釈の余地はないと思う。それがキリスト教であって、そこに生物学的な意味合いを重ね合わせる議論には付き合いきれない。

男と女である人間が父母を離れて相手と結ばれる、その根底には天地創造の神秘があることをイエスは説かれたのであって、離縁や離婚が許されるかどうかを問うファリサイ派の空しさを同時に指摘しているのだ。

とはいえ、イエスが語っておられるように人間は頑固であるので、どうしても離縁や離婚への抜け道が用意されていないと不安になるのかもしれない。律法が離縁の条件についてどのように定めているのかは、調べれば分かることだが、それはこのコラムの目的ではない。まあ、とにかく物事には何かと逃げ道があるということは事実であって、そこら辺をうまくやれば、ヘンリー8世もわざわざカトリック教会と大げんかしなくて済んだのかもしれない。

逆に言えば、ヘンリー8世はカトリック教会と決別する手段として離婚問題を利用したのかもしれない。歴史家の見解を聞いてみたいものであるが、どちらにせよ、一方的に離縁された最初の妻は気の毒である。

今の時代、結婚は神秘であるとはなかなか口にできないし、そのような言説を強調して、旧統一協会の分派かシンパと思われるなら心外でもある。余談になるが、旧統一協会の手段というのは、めちゃくちゃでどうしようもないと思う。結婚を信仰の頂点に置くというか、言葉は悪いが、結婚を手段に使っているのであれば、怒りすら感じていたが、今になって思うのは、1980年代の教会青年は、結婚というものにある種の夢を持ちつつ、その夢の延長にキリスト教会の信仰も共存しているわけで、旧統一協会の信者をまるっきりトンチンカンだとは思わない。

結婚が神秘であるということを忘れて、自由気ままにくっついて離れてを繰り返している、そういう信仰者がどれほどいるのかは分からない。もはや教会内でも「離婚は許されないことではない」としか言いようのない時代ではあるし、離婚禁止かそうでないか、その根拠がイエスのお言葉にあると言うなら、その通りなのだ(つまり、私にはどっちにも読める)。ただし、イエスは律法、つまり掟(おきて)として離婚は許されないと言っているのではない。そのことは念を押しておきたい。(続く)

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藤崎裕之

藤崎裕之

(ふじさき・ひろゆき)

1962年高知市生まれ。明治から続くクリスチャン家庭に育つ。88年同志社大学大学院神学研究科卒業。旧約聖書神学専攻。同年、日本基督教団の教師となる。現在、日本基督教団隠退教師、函館ハリストス正教会信徒。