
こうして、ニコラスとアペレは親切なパン屋のクロエの所にかくまわれ、平穏に日々が過ぎていった。二人はクロエが貸してくれた白い上着と帽子を身に着け、毎日せっせとパンを焼き続けていた。ここに来てからというもの、すっかりアペレとアデオダートスは意気投合して親しくなった。
「本当に私たちはそっくりですね。お客さんが間違えるのも無理はないです」。アデオダートスはアペレと並んで言った。二人は実の兄弟のように似ていたのである。
その日も、5歳くらいの女の子が母親に連れられてパンを買いに来ていた。「あっ、またもう一人のお兄ちゃんがいる。ほら、パン屋さんの帽子かぶってあそこに立ってるよ」。女の子は、母親の手を引いて言った。
「これは違いまあーす。頭にけがしたから包帯巻いているんでーす!」アペレが冗談のような口調で言うと、女の子はキャッキャッと笑った。そして、母親が大きな小麦パンを2つ買うと、その手に引かれて入り口の方に歩きながら手を振った。「バイバイ。白い帽子のお兄ちゃん」。アペレたちも、女の子に手を振った。
「ニコラス司教様。当分の間はパン屋になりすまして、ここにいてくださいまし」。その晩、クロエは声を潜めて言った。
「小麦を買いに市場に行きましたらね、恐ろしい話でもちきりでした。ディオクレティアヌス帝の宮殿のあるニコメディアで、張り出された勅令を破り捨てた一人のクリスチャンの若者が、広場で火刑にされたそうですよ」。ニコラスの背中を冷たいものが走った。
彼は、ローマ皇帝がキリスト教を根絶やしにしようとしている以上、さらに厳しい勅令が出されることを予想した。その時、自分も逮捕されるだろうと考えた。(そうだ。そうしたら、私には殉教の死が待っている。その前に、二度と見ることのないあの懐かしい故郷パタラに別れを告げよう)
ニコラスは、パン屋の白い上着を脱ぎ、元の赤い司教服を身に着けると、一日だけ外出することにした。
ミラの港から船出し、彼は昼過ぎにパタラに着いた。港に降り立つと、かつてはにぎわっていた港に人影が全くなく、寒々としていた。忘れることのできない坂道をたどり、ガイオの屋敷に続く石段を上がっていくと、そこにあるはずの城門がない。たどり着いて目にしたのは、跡形もなく崩されたがれきであった。
れんがに混じって黒ずんだ石ころが無数に散らばっている。不吉な予感に胸が塞がる思いで門をくぐり、次いで目にしたものは、かつてガイオの広大な屋敷があった跡に、うず高く積まれたがれきの山だった。
(あの家はどこにいったのだ! 義父ガイオのあの屋敷は)ニコラスはうろたえながら、がれきの山の間をぐるぐると回った。
「ニコラス様じゃありませんか?」その時、背後から声をかけた者がいる。振り向くと、古くから屋敷に出入りしていた野菜の行商人が懐かしそうに彼を見つめていた。前は元気な若者だったのが、すっかり落ち着いて、一人前の商人の風格を見せていた。
「ミラの司教様になられたと伺っていましたが、ニコラス様、立派になられましたね」。「ここを去って13年くらいたちますが、あなたも一人前になられ、とてもたくましく見えますよ」
そう言ってから、ニコラスはおもむろに尋ねた。「教会となったこのガイオの屋敷は一体どうしたのでしょう? 何もかもなくなってしまって。悪い夢でも見ているようです」
すると野菜売りは、顔をくしゃくしゃにして泣き出した。そして、つかえながら語ったところによると、その日、何の前触れもなくローマ軍兵士たちがやって来ると、この屋敷を破壊し、土台も残らないほどめちゃくちゃにして火をかけたのだという。
「ローマ人たちはひどいことをしました。たくさんの貧しい人たちが集まって食事をしていたときに、いきなり窓から火矢を打ち込み、逃げ惑う人たちを多数殺し、そのままお屋敷に火をかけたのです」
「みんなはどうしたのでしょう? 教会の指導者のヤソンは? ルキオとオルンパは? トロピモ、そしてスントケは?」
ニコラスはうろたえてなおも尋ねると、ヤソンは亡くなり、ルキオとその妻は捕らえられてニコメディアに送られたということである。使用人たちは大方死んでしまったが、一人だけ子どもを連れて逃亡した外国人がいるということだった。
*
<あとがき>
ローマ帝国によるキリスト教の迫害が始まり、ミラの教会が破壊されると、ニコラスとアペレはパン屋のクロエのもとに身を寄せ、ひとまずは危機をやり過ごすことができたのでした。
クロエはニコラスの身を案じ、このたびは少しの間、自分の店に身を潜めているよう強く願うのでした。彼女が伝えた東ローマ皇帝ディオクレティアヌスによる迫害は過酷なものでした。
キリスト教徒たちはディオクレティアヌスの住居があるニコメディアに移され、次々と残虐な方法で処刑されたというのです。ニコラスは既に自分もいつかは殉教の時が来ることを覚悟していましたが、その前にあの懐かしい自分の故郷パタラの町をもう一度見たいと思い、一人ひっそりと旅立ちました。
そこで目にしたのは、「家の教会」としてささげたあの屋敷が、土台も残らないほど破壊され、崩れ落ちた姿でした。ヤソンは殉教、教会を支えるルキオとオルンパ夫妻はニコメディアに移されたというニュースは、ニコラスを打ちのめしたのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。