
ニコラスが教会に帰ると、教会堂の中にはまだアペレとサラが翌日の教材を準備するために残っていた。
「おや、まだ仕事をしているのですか。そろそろ切り上げてお帰りなさい」。ニコラスは2人に声をかけた。サラは台所に行ったかと思うと、ニコラスのためにお茶を入れてきた。
「ありがとう。それでは3人でお茶にしましょうか」。ニコラスは袋の中に少し残っている焼き菓子を出してテーブルに置いた。
「ニコラス司教のパンケーキですね」。アペレはこう言うと、すももを焼き込んだ一つをつまんで言った。そして3人はお菓子をつまみ、お茶を楽しんだ。
その時、入り口の扉がコツコツとたたかれたので出てみると、汚らしい身なりの子どもが立っていた。「ぼく・・・ついさっきこの町に越してきたんです。隣の家の子がおいしそうなパンケーキを頬張っていたから聞いてみると、ニコラス司教様からもらったって言うから・・・ぼくにもお菓子をくれませんか?」
ニコラスは笑い出した。それから、その子どもを中に導いた。「私の作ったパンケーキは、世界一おいしいよ。君のために焼いてあげようね」
そう言って台所に行くと、見事な早さで、小麦粉と牛乳と卵をかき混ぜて生地を作り、熱した鉄板で焼き始めた。その中にりんごとすももの切ったものを混ぜることも忘れなかった。やがてパンケーキが膨らむと、それを皿に取って半分に折り、間にたっぷりとクリームを入れた。
「さあ、召し上がれ」。子どもはむしゃむしゃとおいしそうに菓子を3つ平らげ、手で口を拭うと、出て行こうとした。
「あ、ちょっと待って」。ニコラスは引き止めた。「君、何ていう名前?」
「アカイコ。父さんは船の荷物を降ろしたり運んだりする仕事をしてたんだけど、仕事がなくなったんで、ミラに引っ越してきたの」
「そうか。お父さん大変だね」。ニコラスは、彼が残した2つの菓子と、自分がこれから食べようとする分を一緒に紙にくるんで持たせた。
「おみやげだよ。あのね。日曜日は子どものための礼拝があるし、普段の日も勉強したり遊んだりしに来ていいんだよ」。子どもは、ぱっと顔を輝かせて言った。「ぼく毎日来るよ。じゃあね」。そして、飛ぶように海辺の道を駆けて行った。
その晩。思いがけない客が訪ねて来た。あの懐かしい故郷のパタラから、アルキポの息子ルキオが訪ねて来たのである。
「ミラの教会の司教になられたそうですね。おめでとうございます」。彼はまぶしそうにニコラスを見上げた。「ルキオ。よく訪ねてくれました。お父さんはお元気ですか?」
堅い抱擁を交わしてそう尋ねると、彼はうつむき、涙をこらえて言った。「実は、父は3日前に亡くなりました」。ニコラスは、衝撃のあまりしばらく口がきけなかった。
アルキポは、半年ほど前から健康が優れず、それでもルキオ夫妻に助けられながら屋敷の管理や「施しの日」の準備、予算のやり繰りをしていた。「家の教会」となった屋敷は、大広間を礼拝堂として、ヤソンを監督として日曜ごとに礼拝が行われていたが、アルキポはヤソンを助け、聖餐式のパンとぶどう酒の準備も忘れずに手配していた。
それが、3日前に商用でコロサイに出かけると言って屋敷を出た途端に倒れ、そのまま息を引き取ったということだった。
「申し訳ない。私の身勝手から、全てを父上の手に押し付け、大きな負担をかけてしまいました」。ニコラスの目から涙があふれてきた。
「いいえ。とんでもありません」。ルキオは、彼の手を強く握った。「あなたは神様のご用をするために召されたんじゃありませんか。父はあなたがミラの司教になられたと聞いたとき、とても喜んでおりました。そして、自分ほど幸せな人間はいない、人徳のあるガイオ様とそのご子息に仕え、最後にはキリスト教の信仰に導かれたのだから――と口癖のように言っていました」
アルキポがニコラスから受け継いだ莫大(ばくだい)な資産は全て「パタラ家の教会」の財産としてささげられ、伝道と慈善活動のために使われているということだった。
ルキオはその晩、司教館に泊まり、いろいろ語り合い、翌日ニコラスに見送られてミラの港を出発していった。
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<あとがき>
ニコラスが伝道者になるためにアレクサンドリアの神学校に行ってしまった後、彼から財産を譲られ、屋敷の管理を委ねられていた執事のアルキポは、息子ルキオとその妻オルンパや雇い人たちに助けられて何とかその職務を全うしていましたが、ある時、重なる疲労のために倒れ、そのまま亡くなったのでした。
ルキオは、はるばるニコラスが司教の任務に就いているミラの教会に出向き、この悲報を伝えたのでした。ニコラスは自分の召命のために、アルキポに過分な負担をかけてしまったことを彼にわび、涙に暮れるのでした。
しかしルキオは、パタラの屋敷が「家の教会」となり、ヤソンを監督として良い働きをしていることを伝え、彼を慰めたのです。ニコラスは、悲しみの中にあっても、神様の御心は、ミラとパタラの2つの町に福音が宣べ伝えられることであるとの確信を強められたのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。