2023年4月13日11時17分

危機感にあふれた時代に黙示録的な解毒(その2)

執筆者 : 藤崎裕之

不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(43)

不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(43)

※ 前回「危機感にあふれた時代に黙示録的な解毒(その1)」から続く。

そもそも記録されるなんて思っていなかったし

悲観的(人格的な意味で)な人生こそ、わが誇り的な何かではあるが、故に自分のプロファイルにはロクなことが書いていないだろうと思っている。命の書にそれぞれの人生が記録されているにしても、今さら書き換えもできないのであれば、何とも致し方なしである。

そもそも、世襲のキリスト教徒なので、洗礼を受けた時点で一仕事を終えたくらいにしか考えていなかった。属していた教会が「十字架のお救いバンザイ」教(洗礼を授けてくださったのは「ちいろば牧師」の弟子)であったので、「キリスト教徒の善行」など全く興味もなかったのだ。

かといって、カルヴァン風味の「二重予定」なども知りもしなかった(同志社大学神学部ではあまりカルヴァンを教えない)。故にいわゆる滅びなど全く考えもしなかった。キリストに赦(ゆる)された者として生きるといえば絵にもなろうが、赦されている感覚もみじんもなかったのではないだろうか。若かりし頃の言動を思い出しては赤面するのみである。

審判が怖い

ましてヨハネの黙示録に至っては、いまだにキチンと読んだことさえない。これは言っても仕方のないことだが、自分にはあまり必要のないものだとさえ思っているのだ。多分、一生涯そのままであろう。

最後の審判はあるのだろうが、還暦を過ぎてもいまだに切実感がない。審判されるのか、それは神判なのか。それは分からないが、そういうのは実に怖いし、嫌いである。「お前が嫌いでも、神には神の道理がある」というのは理解しているつもりではあるが。

審査とか「どうよ」って思う

ダメダメ人間であっても向上心というものがある。裏返せば、このまま死んだらキリストの審査でボロボロにされるという恐怖もあったりする。点数稼ぎもしなきゃならないからまだまだ死ねない。それもまた、誰もが似たような感覚を持っているのではないだろうか。

最後の審判ということになれば、どれほどの人間が審査会場に呼ばれるのであろうか。そこでは、命の書の記録が読み上げられるのであろうか。そういうことを考えてみると、審査会長であるキリストの仕事量というのはものすごいと感心するのだ。

それでも、最後の審判に備えるべき方法が全くないわけではない。例えば、キリストは最高法として神への愛と隣人への愛を教えられたわけだが、どうだろうか。直接関係する聖書の箇所は、マタイによる福音書25章31~46節になろう。そこでは「いと小さき者」に対するわれわれの姿勢が問われるらしい。この点についてはますます自信がない。「いと小さき者」への奉仕というのは、本人には気付かれずに実行するものであろうから、それはもう日頃の行いが問われているのだ。胸が痛む。

小さくなれ!?

若い頃に、教会のおばちゃんから「人間は御言葉の前では、ずたずたにされて惨めな思いを頂くのよ。イエス様だけを頼りにしないと生きていけないくらい、小さく、小さくされなくちゃいけないの」と言われ、ムカッとしたことを思い出す。確かに人間は小さくされなければならない。ごもっともなことを教えていただいたわけだ。とはいえ、善行に対する興味を失ってよいのでしょうかね、と言いたい。興味はあるが行わないなら、それは情けない話だが、自分も少しは善行を行えるという期待感は持っておくべきなのだ。

神の前に小さくなるというのは確かに善行なのであろうが、「神の前には小さく、人間の前には尊大」という人を大勢見てきた。思うに、善行というのは善の側に立つことではない。善の側というのは、つまり神の側に立つということであろうが、そんな可能性はないだろうと思っているその「私」はまだマシな方ではないか、ともいえるのかもしれない。多分間違っているとは思うが。

善行を突き詰めると、まさに「小さくなる」ことであろうと思うのだが、その小さくなるやり方はやはり人それぞれなのだ。「いと小さき者の前でも小さくなれ」。言葉にするのは簡単であるが、実のところ、やはりめちゃくちゃ難しいのだ。

やはり荒れているらしい

キリスト教の世界がどうも荒れているらしい。というのは、特にネット世界で顕著であるようだ。その根底に「陰謀」という言葉もちらほら漂っている。これはややこしいから触れない。確かにこの3年、生きづらさを多くの人が味わってきたことは確かであるし、われわれキリスト教徒も相当に鬱憤がたまっているようだ。コロナを理由に教会に行かないでよいなら、もうそれでいいやと思っていた私ではあるが、案外と同じ思いの人間もいるらしいのだ。

ひと目は気になる!と思う。大変に困難な時代だ。こんな時代だからこそ教会へ行かねばと思うのは、それも善行の一種だと思うから、それはそれでよいのだと思う。だからといって、それは誰のためなのかいう点も大事だ。誰のために、何のために教会は門を開けているのか(門を閉ざさざるを得なかった教会に神の憐〔あわ〕れみがあらんことを)。それと善行とどう関係するのであろうか。と、まあ、そんなことを今さらながらに考えているのである。(続く)

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藤崎裕之

藤崎裕之

(ふじさき・ひろゆき)

1962年高知市生まれ。明治から続くクリスチャン家庭に育つ。88年同志社大学大学院神学研究科卒業。旧約聖書神学専攻。同年、日本基督教団の教師となる。現在、日本基督教団隠退教師、函館ハリストス正教会信徒。