2022年12月30日22時27分

聖書と植物(15)アーモンドの花とケーパーのつぼみ 梶田季生

コラムニスト : 梶田季生

聖書と植物(15)アーモンドの花とケーパーのつぼみ 梶田季生
アーモンドの花(写真:Matthias Böckel)

おいのK君が幼稚園に通っていたときのことです。寒い朝、走っていたのです。「Kちゃんのほっぺはりんごみたいやね」。するとK君、すかさず言いました。「先生は梨みたい」。思わず吹き出してしまいました。

伝道者の書の最終章(第12章)は、人生の冬について語ります。体力が衰え、視力も衰え、耳も遠くなり、高い所に上るのはもちろん、脚立に上って立つのもおぼつかなくなり、足を引きずって歩くようになるなどと書き進めますが、途中で急に調子が変わるのです。5節です。

「アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木(フウチョウボク)は花を開く」。そして、人生の終わりを間近に覚え「人はその永遠の家(死)に向かって行き」と聖書は続きます。

アーモンド、バッタ、風鳥木は、何を指しているのでしょうか。

1. 春のアーモンドの一面

アーモンドはシャーケードといい、目覚めるという意味です。春一番にどの花木にも勝って早く咲き乱れる木です。日本でいえばマンサク(まず咲くの意)でしょうか、葉が出る前に花を咲かせます。植物界の春をけん引するにふさわしい。

だがここでは、希望にではなく、花の色に焦点を合わせます。しかも野生種、苦いアーモンドにです。白色です。そうです、過去の苦渋を背負い、望みもなく、髪が真っ白になった老人の姿を描きます。

2. 夏の重荷を背負うバッタ

バッタあるいはイナゴは、夏に活動します。南のアフリカで大発生したバッタが、大移動してパレスチナを襲うことが少なからずあります。大発生すると密度が高くなり、体内の脂肪分などが多く、強くなるのです。

だがここでは、通常のバッタが十分にお腹を満たした状態をいうのでしょうか。歩くことに不自由を感じ、左に右に肩を揺らしヨタヨタと歩くような人の老いを描いています。

3. 夏から秋に咲くケーパー

アビヨナとはこの植物のヘブル名、ここにしか聖書に出てきません。1回だけの語です。ギリシャ語訳(LXX)はカパリスで、欲望または刺激的な願望を意味します。そのつぼみを酢漬けや塩漬けにしたものは食欲をそそり、フランスで特に好まれています。

この木はフウチョウソウ科、フウチョウボク属(Capparis)のケーパーで、パレスチナに多く自生しています。学名は Capparis spinosa L. です。どこにでも普通によく見られます。染色体数2n=38、1ゲノム(基本数)19本です。地中海地域に広く自生しています。

和訳の風鳥木は、植物学的には台湾南部に自生する Capparis formosana Hemsl です。

フウチョウボク属は全世界に約250種あり、熱帯を中心に温暖な地域までアメリカとアフリカに多く、乾燥地域を好みます。興味深いのは熱帯アフリカ、インドの Capparis のあるものは2n=40(基本数10本)と、染色体の数が異なることです。

さて C. spinosa L. は、ケーパーと呼ばれます。南欧州の原産です。花弁は白色で4枚、上下2枚ずつ寄り添い、左右対称、幅約6センチです。雄しべは多く、上部が赤紫色を帯び、一日花です。落葉の灌木で高さ1メートルくらい。灰緑色の葉は円形、互生に付き、葉柄は長く、その付け根に下向きにやや反り返るとげがあります。

聖書と植物(15)アーモンドの花とケーパーのつぼみ 梶田季生
ケーパー(写真:Davidbena)

プリニウスは植物篇で、植え付け時の注意を述べています。「種子をまくときは、特に乾燥した土地の中で溝を掘った場所、また掘りの横に隙間なく石で囲いを作った所にまく、そうでない場所にまくと、畑中に広がって土地をやせさせてしまう。花が咲くのは夏」と、いかに草勢が強いかが分かります。地面や岩地、城壁の隙間など、至る所に普通に見られるといいます。

前述のようなピックルスにするのは、開花前のつぼみです。草勢が強いから、花の数が多く付きやすくなります。人の手でできるだけ短時間で収穫しなければなりません。カプリン酸を含み、香辛味があり、食欲も知的欲求も性欲までも、あらゆる意欲をそそります。この味をなくしたケーパーは、塩気を失った塩のようにむなしいものです。

ここでの聖書は、このような老人を描き、死を前にした老人の無感動、無気力、覇気のない姿を端的に表現しています。原文では「ケーパーが覇気を失って、価値がない」です。特に、いのちを吹き込まれた創造者との交わりがない老人の状態を言っています。人は本質的に、魂に不安と恐れを感じています。私は父を失ったとき、父は今どこにいるのだろうと寝付かれない夜がありました。小学生でしたが。

聖書は真理を言います。「土のちり(体)は元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る」「神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである」(伝道者の書12:7、14)と。

季節が変わっても心機一転できない。何に対しても希望が持てない。重ねて言いますが、それはいのちの息を吹き入れた創造者との関係を絶ってしまっているからです。だから、いのちを吹き込まれた創造者に立ち返りなさい、と言います(伝道者の書12:1)。その時、あらゆる罪を贖(あがな)い、永遠のいのちに招くイエスの希望と光のうちに導かれます。

「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(2コリント4:16)

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梶田季生

梶田季生

(かじた・すえお)

1946年愛知県生まれ。66年に日本バプテスト宣教団津新町キリスト教会で受洗。学生時代はKGK(キリスト者学生会)で交流。68年に三重大学農学部農学科(育種)を卒業。72年に大阪聖書神学校を卒業後、池田キリスト教会伝道師。80年から南都農園(現ナント種苗)飛鳥育種農場で品種改良に従事し、メロン、カボチャ、大根を担当。農場長および宇陀育種研究農場長を経て退職。単立名張聖書キリスト教会元牧師、みえ洗足キリスト教会元協力牧師。このほど、聖書の視点から植物に託されたメッセージをひも解く『聖書の植物―草と木に託されたメッセージ』(イーグレープ、四六判・300ページ、税込2200円)を出版した。なぜイエスは人との関係をブドウに例えたのか、アーモンドはなぜキリストの復活の象徴なのか。実物のカラー写真を配置しながら、分かりやすい言葉で解説している。注文は、全国の書店・キリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。