2018年7月14日21時38分

なにゆえキリストの道なのか(151)「救い」とは何か? 正木弥

コラムニスト : 正木弥

「救い」とは何か。クリスチャンが二言(ふたこと)目に言うが、よく分からない。

救いとは、一般的には窮地とか苦境からの助け出しをいいますが、特に、命の危機にあって死・滅びから免れること、すなわち「救出」を意味します。その場合、滅びも救いも全人生的なものです。

そのうち、究極の救いとは、滅び(ゲヘナでの永遠の刑罰)に入れられることを免れて、からだの復活にあずかり、天の御国で永遠のいのちに生きるものとされることです。それは神が計画され、成就されたキリストの贖罪(しょくざい)のわざによることですが、個々人にとってはそれぞれの地上の人生の間にこれを信じ、受け入れ、罪の赦(ゆる)しを受けておくことが必要なのです。

もしそれができているなら、終わりの時の滅びを免れ、永遠のいのちが定まったこととなるのです。そういう事情から、キリストを信じるに至ることを「救われる」と言い表すわけです。なお、信じることは、その人の主体的な決断でありますが、客観的に見ますと、神の恵みによる面が大きいので、「救われた」という受身形の言葉になるのです。

またそれは、キリストを信じることにより、神との敵対関係が終わって平和な関係となり、神の恵みを受け、導きを受ける人生になったことをも意味します。

ただし、このような意味で救われたとしても、まだ肉体を持ってこの世にいますから、事故や病気など災難・苦難に遭い、痛み・悩み・苦しみが絶えません。罪にもさらされ、肉体の死も迎えなければなりません。従って、その救いはいわば半分の救いであって、抽象的・原理的救いであるわけです。本来の、完全な救いではありません。それを約束された状態なのです。

完全な救いは終わりの時に頂く救いで、救いの具体化といえます。それは、復活により天のからだを頂き、一切の災いから解放され、病気も痛みも悲しみも嘆きもない境地です。積極的に喜び・うれしさ・生きがいの満ちた生活です。それを永遠のいのちともいいますが、永遠のいのちを頂くことが完全な救いです。この完全な救いは、キリストがもう一度この地上に来られて(再臨して)実現します。

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正木弥

正木弥

(まさき・や)

1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。

【正木弥著書】
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)
『創造論と進化論 〜 覚え書 〜 古い地球説から』
『なにゆえキリストの道なのか』

【正木弥動画】
おとなのための創作紙芝居『アリエルさんから見せられたこと』特設ページ