2018年7月5日17時01分

子どもたちをどう守るか―児童福祉の現場から(2)虐待はなぜ起こるのか、性悪説から考える

コラムニスト : 千葉敦志

子どもたちをどう守るか―児童福祉の現場から(2)虐待はなぜ起こるのか、性悪説から考える
※ 写真はイメージです。

前回の記事でお伝えしたように、児童虐待の統計は増える一方です。なぜ増えるのかというと、虐待の理解が広がってきたからです。そして、虐待の定義がはっきりしてきたからだということができます。

はっきり言えば、「虐待」は今の時代だから「虐待」です。「昔は良かった」と言われる一方で、その時代には虐待という定義もないまま、子どもたちは、放置され、強制され、殺された時代だったのです。今風に言えば、まだ赤ん坊だった野口英世が手を囲炉裏(いろり)で焼いて障害を負ったのも、私たちが子どもだった時代の「鍵っ子」というのも「ネグレクト」という定義に当てはまるでしょう。

以前、貧しい国では、生まれてきた子の手や足などをあえて切断して、その子に物乞いをさせたという話を聞いたことがあります。また、日本でも貧しい地域では口減らしとしての人身売買まがいのことなどは当たり前にありました。また、間引きなども行われていたようです。私が子どもの頃にブームとなった「おしん」はそういう時代の日本をよく表しています。

よく信じられている事柄に「親の愛は無限」とか「動物の世界には虐待はない」というのがありますが、これは明確に間違えています。動物園でよく見られる光景ですが、動物の親が子どもを産み落としたのに授乳しようとしないとか、極端な場合、殺して食べてしまうなどということはよくある話です。野生の熊などは、子連れの母グマを見つけると、オスがその子を殺して、その母グマに自分の子どもを産ませるというようなことを行います。

つまり、人間であれ、動物であれ、親の愛情というのはそれを育むための環境と一定の時間が必要なのです。そのような環境と時間をどのように整えていくかが、児童福祉における支援の原則なのです。

目黒の虐待死事件では、過去2回、被害児を保護していました。冷静に見れば、その後のアフターケアに失敗したケースです。実は一時的に保護しても、そのアフターケアについては、守秘義務や保護者の権利などが複雑に絡み合い、残念な結果となってしまうことがあります。

私は保育職に就いて11年になりますが、子どもたちを虐待から守ることは本当に難しいと痛感させられています。手遅れにならないようにするためには、すべての保護者に対して、いつも「虐待の恐れ」を危惧し続けなければなりません。たとえ命懸けで子どもを守ったとしても、その結果は当たり前でしかなく、守秘義務のために明らかにされることはありません。

一人たりとも失われていい子どもの命はないことを熟知してもなお、虐待に関する支援は複雑であり、またその子が保護者の手を離れるまで、そして彼らが親になってもなお、継続していく問題なのです。

保護者から逆恨みされながらも、支援者は守秘義務を課せられて反論もできないことが多くあります。例えて言えば、ノーガードでパンチを浴び続けるしかないのです。しかしそれもすべて覚悟の上でしていることで、それで虐待がやめば成功事例です。逆に、たとえ何回保護に成功しても、その子の命が絶たれれば失敗であるわけです。

さらに、1人の子どもを保護しその命を守ることができたとしても、社会から虐待がなくなるわけではありません。私たちの仕事は続きます。児童虐待の問題の根幹は、虐待が起こる社会構造そのものであり、解決策は、虐待が起こらない社会構造にどう切り替えていくかを考えていく中でしか生まれてこないのです。

より具体的には、虐待に対して、行政や事業者、各支援者が地域単位でどう連携を強化するかが大切だと思います。前回申し上げた数値で明らかなのは、虐待死を防いだ数と虐待死の対比を把握するのが困難だということです。成功例は世に出ることはほとんどないのですが、一方で失敗したケースは、目黒の事件のようにセンセーショナルに伝えられます。

世間は、虐待する親を信じられないと言い、虐待は保護者が犯す卑劣な犯罪だと言います。そう言いたい気持ちはよく分かります。しかし、そればかりではない事情や背景がある虐待を見てきた私は、そのような最悪の事態を予見し、いつ、どのような措置を講ずるかを判断するのに、いつも困難を感じます。端的に言えば、誰が、いつ、どのようにして「親失格の烙印」を押すのかという話なのです。そこに明確な線引きをするのは非常に困難なのです。

「難しいケースだから仕方がなかった」と言って片付けてしまうつもりはありません。また性善説に基づいてどの親であれ信じていくべきだと言うつもりもありません。私は目黒の事件を見て、子どもを助けるためならどんなことでもしようと、あらためて覚悟を決めました。もっと学ばなければなりません。

しかし繰り返しになりますが、現場で子どもたちを守り続けたとしても、それだけで社会から虐待がなくなるわけではありません。人間が人間として扱われる社会、親が親となれる環境と時間、子どもに対して大人が大人になれる環境と時間を整えない限り、児童虐待や対児童犯罪はなくならないのです。そういう意味で私は、現代の資本主義社会全体を性悪説で見る必要があると考えています。

児童虐待は、時代という魔物が生み出す出来事です。時にそれは物理的貧困であり、時にそれは精神的な貧困によって産み落とされた時代の落とし子ということがいえるでしょう。そしてその出来事は、自らの力だけではどうしようもできないという無力感で私たちをさいなみ、「信じられない」「親を極刑に処すべし」などという感情論に走らせてしまうのです。無力感は私たちの本性かもしれません。悪をもって悪に返したくなります。しかし、教会はそんな無力感には屈服しませんでした。

今から150年ほど前、児童虐待という概念がない時代、日本のある地方で大飢饉(ききん)が起こったとき、ある教会の外国人宣教師が農村の道端に捨てられている赤ん坊を見つけたそうです。辺りを見回してみると、道端のあちこちに赤ん坊が捨てられていました。その宣教師は自宅に取って返し、リヤカーを引き回して子どもたちを拾い、育てるために児童保護施設を設立します。

戦前・戦中はキリスト教迫害の嵐にさらされ、経営は非常に困難を極めましたが、そのような時に必ず、夜のうちに人知れず米や野菜が玄関の前に届けられたそうです。子を捨てざるを得なかった人々が、しかしその一方で、この児童保護施設がその子たちを拾って育ててくれていることを覚えていたのでしょう。

このような事例はその地方に起こった特別なことではなく、当時全国あちこちであったと報告されています。また、地方の多くの教会が保育施設を営んでいるのは、そういう理由からだとも言われているのです。(続く)

<<前回へ     次回へ>>

◇

千葉敦志

千葉敦志

(ちば・あつし)

1970年、宮城県生まれ。日本基督教団正教師(無任所)。教会付帯の認可保育所の施設長として、保育所の認定こども園化を実施。施設長として通算10年間、病後児保育事業などを立ち上げたほか、発達障害児や身体障害児の受け入れや保育の向上に努め、過疎地域の医療的ケア児童の受け入れや地域の終末期医療を下支えするために、教会での訪問看護ステーション設置などを手がけた。その後、これまでの経験に基づいて保育所等訪問支援事業を行う保育支援センターを立ち上げた。現在、就労支援B型事業所「WakeArena」を立ち上げ、地域の福祉増進を目指している。