2018年6月30日06時33分

なにゆえキリストの道なのか(149)この世は結局、優秀者・勝者・成功者の晴れ舞台ではないか 正木弥

コラムニスト : 正木弥

この世は結局、優秀者・勝者・成功者の晴れ舞台ではないか。

この世でそういう人が上に立って活動しているのは事実です。物事を決め、指揮・指導し、脚光を浴び、豊かで華やかに生き、称賛も得ています。しかし、そういう人々が本当に称賛を受けるに値する立派な人かどうかは別の話です。優秀者、勝者、成功者といえども、一皮むけば弱さ・愚かさ・失敗や恥ずべき点を持っているのが普通です。

『アレクサンドロス大王東征記』には、彼の破天荒な征服事業が記録されていますが、同時にその過程で人間的な過ちを幾つも犯したことも書かれています。歴史に残る大王であっても、その足は地上にあり、我々と同じように弱さと愚かさにとらえられていたのです。

日本の歴史上、大衆に最も人気のある豊臣秀吉は、卑賤の身から知恵才覚と堅忍不抜の努力で功を遂げた人物ですが、その一方で、大変な漁色家で手当たり次第に女性を犯し、また、天下人になってからはやたら人を殺す横暴な君主になりました。これでは尊敬する気持ちも萎えますね。豊臣家が2代も続かなかった道徳的原因です。要するに、恥ずべき汚点を持った人間だったことを天下に晒(さら)したのです。

現代の成功者たちも、あるとき不正やスキャンダルが明るみに出て権威や面目が急速に失墜してしまうのを、我々は何度も見てきたではありませんか。また、優秀者、勝者、成功者は、表面上はともかく、心底では高慢・不遜になりやすく、また卑しい欲望にもとらわれがちです。人が外面的にどうあろうと、それを人がどう評価しようと、その人の真の姿は別物です。神は、その問題点を見ていつか何らかの処置を下すでしょう。

特に注意を要する点は、彼らがそのように勝利し、成功したのは自らの努力や良い心掛けというよりも、その生まれつきの才能・家柄・家族関係などの好環境、さまざまな好運などの恩恵のゆえであることです。ですから、それを与えてくれた神様に感謝すべきです。多く与えられた者は、それを善用・活用して神様なり社会なりにお返しする責任がある、といえます。

多く与えられた者は、遠くから見ればうらやましい限りですが、ねたむ必要はありません。多く与えた神様は、その人がはたしてそれに見合うくらいに善用・活用したかどうか、その責任をきっちりと問うことになるでしょう。神は、公平な方です。

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正木弥

正木弥

(まさき・や)

1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。

【正木弥著書】
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)
『創造論と進化論 〜 覚え書 〜 古い地球説から』
『なにゆえキリストの道なのか』

【正木弥動画】
おとなのための創作紙芝居『アリエルさんから見せられたこと』特設ページ