2017年8月12日07時06分

脳性麻痺と共に生きる(33)高等部にはクラブ活動がない 有田憲一郎

コラムニスト : 有田憲一郎

以前にも書きましたが、高等部に入学してオリエンテーションが行われました。僕はこの時までオリエンテーションという言葉の意味を知らず、また先生から「オリエンテーションというのは説明会という意味です。これから高等部で受ける授業のことや生徒会というものの説明をしていきます」などと説明を受けていたにもかかわらず、その話を聞いていなかったのでしょう。僕はまったく理解しておらず、「今日は、ゲーム大会をするんだ」と思い込み、普段より楽しみにして学校に行ったことを懐かしく思い出します。

高等部の全校生徒が会議室に集まり、僕たち新入生は歌とゲームで温かく歓迎してもらいました。先生方が会議室前のテーブルに1列に並んでいます。「それではこれから、今年度のオリエンテーションを始めたいと思います」と先生が言いました。オリエンテーションはゲーム大会でお楽しみ会だと思い込んでいる僕は、「えっ?」と戸惑いながらもあたりをチョロチョロ見まわし、オリエンテーションはゲーム大会ではないことに初めて気付きました。

「じゃあ、オリエンテーションって何だ? 今から何が始まるのだろう」などと思いながら待っていると、それぞれの担任の先生と担当の先生方一人一人が紹介され、授業を受けるグループ分けが発表されました。

それは、中学部までとは違う新鮮なものでした。「これが高等部なんだ」と実感したと同時に、「本当に高校生になったんだ」とあらためて感じました。考え方も幼かった僕にとって、その光景は別世界にいるように思え、大人の世界のようにも感じていました。

先生が高等部の授業について説明してくれます。高等部になると、少し受ける授業も変わってきます。国語、数学、美術、英語、体育、音楽、訓練の授業は同じですが、中学部にはなかった社会の授業と、卒業後に向けた授業として選択授業が加わりました。そして、生徒会活動も行われます。

先生が授業の説明をした後、生徒会の会長と副会長が前に出てきて、生徒会の活動について説明しました。説明を聞きながら、僕は「すごいな」と思いつつ、少し新たな興味が湧いていました。しかし僕は、授業の内容や生徒会のことより、クラブ活動がないということにちょっとしたショックを受けていたのです。

高等部になると、大好きだったクラブ活動の時間がなくなってしまいます。僕が通っていた養護学校のクラブ活動は、週に1回2時間の活動が行われていました。小学部の高学年から中学部が一緒に行い、体育クラブ、音楽クラブ、図工クラブ、ゲームクラブ、手芸クラブ、散歩クラブなどがありました。

毎年、年度初めに先生から「今年は、どのクラブに入りますか?」と聞かれていました。僕は、自分で考えて決断する力が弱く、特に小学部の頃、自分でやりたいことを決められず、クラブを決めるにも大変だった時期がありました。

先生には「憲ちゃん、入りたいクラブを1つだけ選んでね。クラブは先生が決めるんじゃなくて、自分で考えて、やりたいことを決めるんだよ」と言われていました。自分で選ぶことができなかった僕は、年に1度入りたいクラブを選ぶことも勉強の1つになっていたのです。

「憲ちゃん、どのクラブに入りたいか決めた? そろそろ決めないと、憲ちゃん、クラブができないよ」。その翌日、「先生。僕、手芸クラブに入りたい」と言ったことを思い出します。先生は少し驚きを隠しながら、「憲ちゃん、編み物とかしたいの? もっと違うクラブもあるよ。手芸クラブでいいの?」と他のクラブを薦められたりもしましたが、家庭科で少し教わっていた編み物に興味があった僕は、そのまま手芸クラブに入りました。

男の子の僕は、機械いじりやプラモデル、ミニカー集め、木工や工作といった部類が大好きな半面、当時は女の子の遊びが好きだった少年でもありました。男の子が見そうなアニメにあまり興味がなく、よく見ていたのは少女アニメでした。

幼い頃、病院生活で同じ世代の男の子にいじめられていた時期があり、気が付けば一緒に遊んでいた友達も女の子たちの方が多く、女の子の仲間に交じり、おままごとやお人形さん遊び、お母さんごっこなどをして遊んでいた時期がありました。

母が働きに出て父が家事をしていたので、家で縫物をし、ミシンやアイロンを掛ける父の姿を見ていました。針と糸、そして、足で踏む大きな電動ミシンを使いこなし、何でも縫って修繕し作っていく姿を見て、最初の頃は動くミシンの仕組みに興味があっただけでしたが、見ているうちに手芸にも興味を持ち始め「僕もやってみたい」と思うようになっていったのです。

手芸クラブは女性が大半でしたが、その中に僕も含め2、3人の男の子が一緒に交じって手芸をしていました。「憲ちゃん、これだったらできそうだね」。手が不自由で針や糸を持って縫っていけない僕は、よだれが垂れないようにマスクをしてもらい、割り箸に毛糸を付けて網状のネットに編んでいき、状差しやカバンを作っていました。

何かを作ることが好きだった僕は手芸にはまり、「家でやってくる」と言って他の勉強はせずに家でも状差しやカバンを作っていました。自分で創り上げていく楽しさや喜び、達成感があり、夢中になっていました。

しかし、僕は手芸クラブを2年で辞めてしまい、ゴロ野球やゴロバレーができる体育クラブや、オセロや将棋、トランプなどが楽しめるゲームクラブを年ごとに変え、自分の好きなクラブを転々と行ったり来たりして楽しんでいました。

小学部の頃は、中学部、高等部に通う先輩方はお兄さん、お姉さんの存在です。「この中に高等部のお兄さんやお姉さんもいるんだ」と思っていました。中学部になり「高等部になるとクラブ活動に出ないんだ。違う勉強をしているんだ」と気付き、中学3年生の時には「中学を卒業したら、クラブ活動はできなくなっちゃうんだよな」と寂しさを感じながら、残り少ないクラブ活動を楽しんでいました。

高等部のオリエンテーションで、先生からあらためて「高等部は、クラブ活動はありません」と話があったとき、頭では分かっていても、「もう、できないんだ」という何とも言えない切なさを感じました。

クラブ活動がなくなり、新たに授業が加わりました。それが週に2日4時間行われる選択の授業です。選択授業といっても、自分たちで受けたい授業を選ぶわけではありません。先生がその子の障碍(しょうがい)や能力に応じて学ばせる内容を決め、卒業後の進路に向けて、生きていくために必要な知識や技術を学んでいきます。

選択の授業は、木工、陶芸、コンピューター、生活などの科目がありました。僕はコンピューターのクラスになり、ワープロ、パソコンの技術を学んでいくことになるのです。

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有田憲一郎

有田憲一郎

(ありた・けんいちろう)

1971年東京生まれ。72年脳性麻痺(まひ)と診断される。89年東京都立大泉養護学校高等部卒業。画家はらみちを氏との出会いで絵心を学び、カメラに魅力を感じ独学で写真も始める。タイプアートコンテスト東京都知事賞受賞(83年)、東京都障害者総合美術展写真の部入選(93年)。個展、写真展を仙台や東京などで開催し、2004年にはバングラデシュで障碍(しょうがい)を持つ仲間と共に展示会も開催した。05年に芸術・創作活動の場として「Zinno Art Design」設立。これまでにバングラデシュを4回訪問している。そこでテゼに出会い、最近のテゼ・アジア大会(インド07年・フィリピン10年・韓国13年)には毎回参加している。日本基督教団東北教区センター「エマオ」内の仙台青年学生センターでクラス「共に生きる~オアシス有田~」を担当(10〜14年)。著書に『有田憲一郎バングラデシュ夢紀行』(10年、自主出版)。月刊誌『スピリチュアリティー』(11年9・10月号、一麦出版社)で連載を執筆。15年から東京在住。フェイスブックやブログ「アリタワールド」でもメッセージを発信している。