2016年9月10日13時08分

セミの幼虫、強制脱皮未遂事件 関智征

コラムニスト : 関智征

1. セミの幼虫強制脱皮未遂事件

私が小学生の時、家の近くの公園で、セミの幼虫を見つけました。好奇心旺盛だった私は、セミを強制的に脱皮させようと殻を破ってみました。

しかし、殻の中の幼虫はまだ十分に成長していなかったので、飛ぶことなく死んでしまいました。

セミの幼虫は、殻の中でゆっくり成長します。 脱皮するまでの間、大人になろうとして、長い時間をかけ殻の中でもがいているそうです。

殻の中の幼虫は、もがく動作を通して、たくましくなり、大人になる準備をします。

小学生の私は「セミが大きくなるのが遅い!セミの脱皮を早く見たい」と思って殻を破りました。しかし、その脱皮の「助け」が、かえってセミの成長の機会を奪ってしまい、幼虫を殺してしまいました。

ちょうど過保護な親が、子どもの代わりに何でもやってあげて、子どもが成長する機会を奪うのと同じことを、私はセミにしてしまったのです。

2. 神様は、あえて静かに私たちの成長を見守る

私たちの人生には、誰でも試練や逆境があります。苦しいこと、不条理なこと、痛いことは、できれば避けたいと思うのが人情です。

しかし、聖書では「さまざまな試練をこの上ない喜びと思いなさい」とあります。なぜなら、信仰が試されると、忍耐が生じるからです。

苦難や試練、逆風の中でこそ、私たちは忍耐力が養われます。そして「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のです。

3. 神に問うのではない、神に問われている

何年も前のことです。私は試練の中にいました。ある知人の気分次第で深夜まで振り回されたり、無神経な言葉をぶつけられたり、はしごを外されるような状況でした。

「なぜ、私だけこんな目に遭うのか」。神に問いました。しかし、状況は良くなるどころか、悪くなる一方です。

そんな中、「どんな不条理なことや侮辱にも、キレないで耐えられたかを、お前は問われているのでは」と先輩に言われました。「お前が、人生に問うのではない。人生がお前に問うている」。その言葉に、ハッとしました。

今思えば、困難の中でもがくことで、 私が、たくましく成長する。それを信じて、神様は、あえて私の問いに応えずに 「試練」という殻の中で、私を鍛えてくれていたのです。

セミが幼虫から成虫に成長するように、私たちは日々成長していく途上にあります。

そして、私たちの人生のゴールは、人格の完成すなわち「キリストのようになること」です。私たちが、キリストの似姿に脱皮するため、今も私たちは神に試されているのです。

小学生の私は、セミの幼虫の殻を破ってしまって、セミの成長の機会を奪っていました。同じように、もし神様が私の問いに応え、すぐに試練から解放してくださっていたら、私の成長の機会は奪われていたのではないでしょうか。

英語で、試練を「テスト」と言います。試練を通して、私たちは神様に問われています。そして、忍耐をもって神から与えられたテストをクリアした先には、神を愛する者に約束された「いのちの冠」が待っているのです。

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関智征

関智征

(せき・ともゆき)

ブランドニューライフ牧師。東京大学法学部卒業、聖学院大学博士後期課程修了、博士(学術)。専門は、キリスト教学、死生学。論文に『パウロの「信仰義認論」再考ー「パウロ研究の新しい視点」との対話をとおしてー』など多数。

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