2016年7月1日10時53分

蜜と塩―聖書が生きる生活エッセイ(14)痛みを伴う成長 ミュリエル・ハンソン

コラムニスト : ミュリエル・ハンソン

14章 痛みを伴う成長

2歳半になる娘のパーミーは、私の膝の上で気持ちよさそうでした。私も、しっかり娘を抱きしめて、ロッキング・チェアーに揺られながら親子で至福の時を楽しんでいました。

さらにギュッと私を抱きしめた娘の口から、私は、突然思わぬ言葉を聞いたのです。

「ママ、私、大きくならないで、ずっとこのままでいたいの」
「え、なんで?」
「ずっと、ママの赤ちゃんでいたいの」

娘の言葉を聞き、その口調から私はハッとしました。娘が「ずっとこのままでいたいの」と言った言葉をそのまま受け取り、「え、なんで?」などと聞き返さなければよかったのにと思ったからです。

ロッキング・チェアーに揺られて、2人の時がゆっくり過ぎてゆきました。 娘が言った言葉を反すうすると、彼女の心の内が読み取れたような気がします。

娘の純真無垢な年齢の後には、これからの人生が、いつも楽しいことばかりではないと気付くときがやがて来るでしょう。彼女が私の腕に抱かれて感じる安らぎや温もりが、いつも必ずあるとは言えません。私は、娘の成長はまだこれからなのだと思いました。

そこで、かわいい娘が「ずっとこのままでいたい」と言ったことがきっかけとなり、いろいろなことを考え始めました。

自分が知っている世界に閉じこもり、そこで安心や安らぎを握り締めたがるのは、子どもだけでしょうか。私たち大人も、自分のことよりも、むしろ、他の人々に関心を寄せなければならないときに、安心できる自分自身の小さな世界に閉じこもってしまうときがありますね。

娘を抱き、椅子に揺られて考えていると、今までの思いは、いつの間にか祈りになっていきました。

「パーミーだけでなく、他の2人の子どもたち、ブレンダとケントにも伝えたいことがありますから、主よ、どう教えたらよいか、私を導いてください。私たちが必要とする安らぎは、あなたを知らなければ得られないことを教えたいと思っています。子どもたちが、自分たちの小さな世界に閉じこもらないで、他の人々のことに思いをはせるとき、その時こそ、自らが一番成長するのだと理解できるようにしてあげてください。成長と自らを捨てる関係は、深いつながりがあることを子どもたちに学ばせてください。主よ、どうか、子どもたちが大きくなりたいと願えるように、彼らに力を与えてください。そして、仕えられるより、仕える人に育つように。親が良いお手本を示せるように、私たちをもお導きください。アーメン」

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:4)

ウエストが高く、スカートの部分がたっぷりある、フワフワしたかわいいドレスを想像していただけますか。パーミーが最後に着た、フリルがいっぱい付いているドレスの最後の手入れをしていたのです。

ドレスを片付け始めながら、「なんてかわいいドレスだったのだろう。もう一度だけ、パーミーをドレスの中に押し込んでみたいわ」とドレスをしまい込んで、後悔しないだろうかと迷い、私はためらいました。

5歳になったばかりの娘の関心が大人っぽい物に移っていることには、私も気付いていました。しかし、子どもたちの思い通りに、子どもから抜け出したい気持ちを、そのまま許すのは難しいことです。

息子のケントがイートン製の短いズボンを最後に着たときも、パーミーの洋服と同じようなことを感じました。息子のズボンはまだ小さくなっていないのに、彼は「子どもっぽい」と言って身に付けようとしませんでした。彼は今の時だけが子どもでいられるのですから、「大人の雰囲気の洋服」などと思うのは、なんともったいないことでしょうか。

まだ幼い年頃の少年たちを「小さな大人」に駆り立て、少女たちが「女性」に憧れる社会を作ったのは私たち大人だと思います。子どもについてでも、洋服のことに関してでもありませんが、他にも同じような気持ちがあったと、ふと思い出しています。

その思い出は、修養会の時に経験したことです。インディアナ州のウィノーナ湖畔で開催された修養会には、何と多くの参加者があったでしょうか。

会の期間中に、部屋の向こう側にいた婦人に何度となく手を振ってあいさつをしました。近づいて、せめて親しくなりたかったのです。それから1週間がたちました。彼女に会いたいと思い、 大勢の人々の中をかき分けて進んでみましたが、やはり会えずじまいになり、私の願いは叶いませんでした。

私は、「やっぱり、昔のほうがよかった」と、参加者が少なかった修養会を懐かしく思いま した。以前は「親しかった友に会える!」と期待して年1回の修養会に参加し、この機会でしか会えない友との交わりを楽しめたものです。

会が小さかったので、お互いに知らない人は誰もいませんでした。修養会が大きくなり過ぎたのでしょうか。交わりを大切にする人々にとっては、会が大きくなったために、お互いに励まし合うことができなくなったといえるでしょう。

そのように考えると、私は成長することに抵抗を感じ始めています。進歩するためには、時間、努力、お金を掛けなくてはなりません。何かを犠牲にして大きくなるのです。

修養会が成長して大きくなるように祈ってきましたが、成長することと大きくなることが相反していると気が付いて、愕然としています。成長を期待していたものの、結果としては、がっかりすることばかりが残っているような気がします。今までお互いに慣れ親しんできた温かくて安心できる交わりがどこかに行ってしまったように思えるからです。

成長と共に一方では犠牲があるのは、自然の成り行きなのでしょう。

私たちは自分たちを安心させてくれる物にしっかりとつながっていたいと思うものです。新しい友を作るより、なじみのある友達との交わりの方が気楽で心地よい気持ちでいられますね。

私たちは、長く続いた親しい絆を断ち切りたくはありません。親しい関係がなくなると思うと、どうしても不安が募ります。

受けるより与える方が、はるかに祝福があることを忘れてはいませんか。信仰も同じところに留まらないで、思いっきり挑戦する喜びや、それによって得られる新たな勝利の方が、親しくて居心地のよい関係よりもはるかに勝っていることを思い出しましょう。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(へブル12:1)

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【書籍紹介】
ミュリエル・ハンソン著『蜜と塩―聖書が生きる生活エッセイ』

蜜と塩

読んでみて!

一人でも多くの方に読んでいただきたいエッセイです。聖書を読んだ経験が有る、無しにかかわらず、著者ファミリーの普段着の生活から「私もそのような思い出がある」と、読者が親しみを抱くエッセイです。どなたが読んでも勉強になります。きっと人生の成長を経験するでしょう。視野の広がりは確実です。是非、読んでみてください。

一つは、神を信じている者が確信を持って生きる姿をやさしく、ごく当たり前のこととして示しているからです。著者は、日本宣教のため若き日に、情熱を燃やしながら来日しました。思わぬ事故のためにアメリカへ帰らなければなりませんでしたが、生涯を通して神への信頼は揺るぎませんでした。

もう一つは、日常の中に働いている聖霊のお導きの素晴らしさを悟ることができるからです。私たちの日常生活が神様のご意志のうちに在ると知ることは、安心と平安を与えるものです。

さらに、著者のキリスト者生活のエピソードを通じて、心が温まるものを感じます。私たちの信仰生活に慰めと励ましが与えられます。信仰が引き上げられて、成長を目指していく姿勢に変えられていく自分を発見するでしょう。

長く深く味わうために、急がずに、一日一章ずつでもゆっくりと読んでみてはいかがでしょうか。お薦めいたします。

ハンソン夫妻の長い友  神学博士 堀内顕

ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。

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ミュリエル・ハンソン

ミュリエル・ハンソン

(Muriel Hanson)

ミュリエル・ウエッスマン(Muriel Wessman)はミネソタ州出身、カルヴィン・ハンソン(Calvin Hanson)はカリフォルニア州出身。2人は、イリノイ州シカゴにある福音自由教会聖書学校で出会う。その後、ディヤーフィールド(Deerfield)郊外にあるトリニティー(Trinity)神学校で学ぶ。両氏はウィートン大学(Wheaton)で学び、ミネソタ大学(Minnesota)を卒業。1947年6月7日に結婚。

夫がミネアポリスで牧会に携わっていた時の1949年3月、2人はアメリカ福音自由教会から日本への初代宣教師としての召命を受け、遣わされることになる。

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1949年8月30日、改造した軍艦に乗船して日の昇る国、日本を目指して出航する。9月13日、横浜上陸。カルヴィンとミュリエルは語学の学びを始める。一方、カルヴィンは路傍伝道者として、街頭で熱心に福音を宣べ伝える。東京郊外の浦和の地で、従軍牧師が高校生のために英語聖書クラスを開設していた。その後、従軍牧師の引退に伴い、ハンソン夫妻が1950年3月にこの英語聖書クラスを引き継ぎ、拠点教会の礎となる。

新しい宣教師たちがアメリカから到着した後、ハンソン夫妻は浦和から京都に移り、宣教本部を開設、開拓伝道に励む。1951年、カルヴィンは1週間に1回、日本語でラジオ伝道を始める。当時、京都放送は初めて伝道番組が電波に乗るのを許可したのである。ラジオ伝道は7年間続く。ミュリエルはラジオ放送のために、携帯用の足踏みオルガンを弾き、3人の女性合唱の指導にも携わる。京都では、宣教師館に隣接する画家のアトリエが最初の教会となる。その周辺で、二つの開拓伝道が始まり、教会の基礎が作られていった。聖書学院を設立。カルヴィンとミュリエルは同労者の宣教師と共に教鞭を執る。

1953年1月3日、長女、ブレンダ(Brenda Kay)が誕生。1954年6月、カルヴィンとミュリエルは最初の休暇が与えられ、貨物船で母国に一時帰国する。同年の9月17日、長男、ケント(KentBryan)が、ミネソタで誕生。1955年夏、ハンソン一家は貨物船で日本に戻る。休暇で留守にしていた場所で、再び宣教活動に専念する。

1957年7月27日、次女、パメラ(Pamela Sue)の誕生を喜ぶ。ここまでは万事順調だった。しかし、1959年1月3日の寒い日に、悪夢が襲う。ハンソン師が、隣町へ説教の奉仕に出掛けていた最中のことである。ミュリエルが3人の子どもたちをお風呂に入れていたときに、4人共がひどい一酸化炭素中毒に見舞われた。母親は、ほとんど意識を失いかけていて、意識のない3人の子どもを廊下に蹴り出すのが精いっぱいであった。後になって分かったことだが、この事故の原因はお風呂の煙突が壊れていたためだった。

子どもたちは回復に向かったが、ミュリエルには回復の兆しがなかった。6月、ミネアポリスの宣教団本部は、彼らがプロペラのジェット機で帰国できるように手筈を整える。京都の医者は1年も経てば再び日本に戻ってこられると保証した。飛行機旅の途中、緊急のためにホノルルに着陸。ミュリエルは直接、病院に緊急搬送され、ハンソン師は子どもを連れてホテルに向かう。血液が一酸化炭素に侵されていたために、ミュリエルの体内の全血液を急いで入れ替えなければならなかった。彼女の肺機能は20パーセント以下、さらに血圧は辛うじて測れる程度であった。しかし、翌日の夕方、医者は彼女に、「大丈夫、持ちこたえられる」と告げる。その3日後、母国の実家に到着。

神経系統の機能が傷みつけられた状態で、以後、彼女は特に、視神経、肢、記憶障害に悩まされることになる。家族は、およそ2年間、ミュリエルの両親が住むミネソタ州ダッセル(Dassel)で、両親と共に生活。その後、ミネアポリスのアパートに移り住む。カルヴィンは牧師の立場で、博士課程最後の学びをミネソタ大学で続ける。1961年、カルヴィンはトリニティー短期大学の学長として招聘(しょうへい)を受ける。

1962年9月、短期大学設立に着手。カナダのブリティシュ・コロンビア州ラングレイ(Langley)の広大な牧草地帯の中に大学が誕生する。しばらくしてから、ミュリエルの健康状態に判断が下される。日本に戻るだけの十分な体力がなく、回復には10年はかかる、という結論であった。彼らは、まだ34歳であったが、宣教師としての奉仕に終止符を打った。カルヴィンは学びを中断して、家族全員を連れて、ブリティシュ・コロンビア州、ホワイト・ロック(White Rock)に引っ越す。そこで、ミュリエルは学長である夫の良き協力者として、尊い秘書の役割を自宅で果たす。ミュリエルは、福音自由教会が定期的に発行する機関紙にコラムの投稿依頼を受け、「Honey and Salt」(蜜と塩)の原稿を15年間書き続けることになる。執筆活動は記憶回復のためにもなった。

1974年8月、カルヴィン・ハンソンは、トリニティー・ウエスタン・カレッジ(Western College)の学長の座をネイルシュナイダー(Neil Snider)に譲る。そして、大学はカナダで最初のキリスト教信仰に基づく、トリニティー・ウエスタン大学(Trinity Western University)として新しい道を歩み出す。子どもたちはそれぞれの道に進み、自立する。カルヴィンはラングレイ(Langley)で2年間、牧会をした後に、イリノイ州シカゴにあるトリニティー神学校の教授として招かれる。

この間、ミュリエルは彼女自身の著作活動をやめて、夫の出版を助ける。最初の書物は、『On the Raw Edge of Faith』という表題になる。これは、彼らが信仰の崖っ淵に立たされる経験をしながら、トリニティー・ウエスタン大学設立に携わった話である。

トリニティー神学校で18年間、教鞭を執った後、カルヴィンは引退し、ミュリエルと共にワシントン州、ベーリングハム(Bellingham)のサドン・ヴァレイ(Sudden Valley)に移り住む。

その後、すぐにケニア(Kenya)へ宣教活動に向かう。3カ月の滞在中、カルヴィンはモファット(Moffat)聖書学校で教え、ミュリエルは校内にある出版部で、編集、執筆に当たる。

彼らは、無牧の教会で、牧会の働きも手助けした。このような働きは6カ月単位で五つの州、九つの教会に及ぶ。また、日本福音自由教会に招かれて、日本に6カ月ほど滞在し、地方教会を訪れ、人々を励まして回る。短い期間ではあるが、このような働きをインドでもする。

彼らは、福音自由教会の招きで日本に何度か戻り、記念大会や会議などで奉仕をする。2010年7月、カルヴィンは、日本福音自由教会60周年記念大会の講師として招かれ、初代宣教師として開拓伝道に励んだ日本で、説教をする機会が与えられたことを心から喜ぶ。カルヴィンとミュリエルは3回目の挑戦ともいえる開拓伝道の働きを彼らが住むサドン・ヴァレイにおいて継続している。

この地の自然は他のどこよりも美しく、住んでいるマンションからの眺めを楽しみ、創造の素晴らしさを満喫している。2人には5人の孫と2人のひ孫が与えられている。