2015年3月16日09時45分

ヨハネ8章より 罪の赦しについて(7) 神内源一

コラムニスト : 神内源一

聖書は、私たちに罪の赦しによる救いの知識を与えるものです。

「神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである」(ルカ1:77)

「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ24:47)

これが、聖書の中身です。私たちは罪赦されています。赦されたなら、私たちは心優しい者になるのです。私たちは罪を犯します。パウロはそのことをしっかりと教えてくれています。クリスチャンとして、赦されている者の考え方、生き方をはっきり知りましょう。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)

私たちはイエス様の中にあるのです。ならば決して罪に定められません。あなたがクリスチャンらしくないことをしたり、罪を犯したりしたとしても、「あなたは決して罪に定められません」と言っているのです。

パウロは、私たちとは違う、聖人のような人ではありません。彼はこう言いました。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」(ローマ7:15~17)

私たちがイエス様を信じたとき、古い自分と新しい自分に分けられたのです。罪を犯すのは古い自分で、それはキリストとともに十字架で死んだのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました」(ガラテヤ2:20)

罪を犯したとき「決して罪に定められない」。なぜならば、罪を犯す自分はイエス様によって処理されているからです。

「もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」(ローマ7:20)

パウロは言いました。「私が罪を犯したとは言わない。なぜならそれは私に住み着く罪、自分でないものがやっている」。こういう考え方です。私たちが罪を犯しても、イエス様の身代りによってすでに解決されているので、罪人の意識で神のもとに行くのではなく、罪のない者として帰っていきます。このような素晴らしい恵み、祝福、赦しを得ているのです。

「父よ。彼らをお赦しください」(ルカ23:34)

イエス様の十字架での叫びが、また血潮が、私たちをこのようにして下さったのです。

(終)

■ ヨハネ8章より 罪の赦しについて:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)

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神内源一

神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)

ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。

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