泣き明かしたキャンプ
中学生の時、葛温泉の近くでキャンプが行われた。担任の先生は絵の先生で、私はクラス委員をしていたと思う。嫌いな蛇が沢山いるキャンプ地で、天幕を張り、楽しいキャンプが始まった。近くの温泉に皆で入ったり、飯ごうでご飯を炊いたり、カレーライスを作って楽しい時が続いた。山に入って薪を集め、キャンプファイヤーの時が来た。火を囲んだが、歌や寸劇、手品等の出し物が出てこない。先生は私に何でもするようにおっしゃるのだが出てこない。暗い雰囲気になった。先生は腹を立てられた。私ともう一人が先生にぶたれた。楽しいはずのキャンプは悲しいものとなった。私は天幕で一晩中泣き明かした。声をこらして涙を拭き続けた。もう一人の友人も泣いていた。
私はその担任の先生を信頼できなくなってきた。教会に行くようになってその先生のために祈るようになり、手紙を先生に書いた。長い間の心のもやもやが消えていった。
黙って借りた本
市制が敷かれることになり、私の村の平村が大町市になった。当時三万人の人口があると市に昇格できた。田舎の中学から町の中学に移った。小さな粗末な図書室が大きな図書室に変わった。一年生が二クラスしかなかったのに、六クラスになった。
友達もでき、学校にもなれてきた。あれは確か夏休みのことだった。図書室に行ったら図書の先生がいない。借りるのに許可がいるのに、黙ってかばんに入れて家に帰った。
「図書愛護週間」には、「図書を大切にしましょう」と呼びかけていた、クラス委員の私だったのにこれはどうしたことだろう。
私は、クリスチャンになって、学校の図書の女子職員宛に手紙とお金を送った。名古屋でポストにその手紙を投函するのに、時間がかかった。今まで工藤は馬鹿真面目だと思われていたのにそれが崩れてしまう。一週間も経った時、会社から帰ると丁寧な手紙が図書室の女子の先生から届いていた。その手紙には「今まで沢山の本がなくなったが、あなたのような手紙をくださったのは初めてでした。感激しました。同封のお金で本を購入して備えました。郷里に帰った時には、中学にぜひ寄っていただきたい。あなたの許可を得ませんでしたが、こんな真面目な卒業生がいることを昼休みの校内放送で放送させていただいた」と記されていた。主イエスに罪を許していただいたと共に、図書の先生にも許していただき感謝に溢れた。
聖書のヨハネ第一の手紙一章九節には、「もし、私達が、自分の罪を言い表すならば、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達をきよめてくださいます」とある。
その御言葉のようにされたことを感謝した。
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