2009年5月30日11時23分

植竹利侑牧師「現代つじ説法」(2)・・・年をとるのは素晴らしい

コラムニスト : 植竹利侑

ある人が、老人の生理と心理を次のようにいった。

「しわがよる、ホクロができる、腰まがる。頭はボケる、ヒゲ白くなる。
手はふるえる、足はよろつく、歯はぬける。耳は聞こえず目もうとくなる。
身に添うは、頭巾、えり巻き、つえ、めがね、ゆたんぽ、かいろ、しびん、孫の手」

「聞きたがる、死にとうながる、さびしがる。心のまがる、欲ぶかくなる。
くどくなる、気短になる、ぐちになる。でしゃばりたがる、世話やきたがる。
またしても、同じ話に子をほめる。達者じまんに人はいやがる」と。

自分はまだ若いから大丈夫と思っても、五十歳でもうだいぶ当たり、六十歳ならほとんどが当てはまろう。

またある人が、老年とは「喪失の時代だ」といった。悲しいけれど、若さを失い、体力を失い、職を失い、収入を失い、楽しみを失う。妻や夫まで失って最後にはいのちまで失う。そのうえ愛も感動も、慎みも失って、いぎたなく生きるのが老年期か。

違う! 老年期はそんなうすぎたないものと違う!

むしろ光り輝く素晴らしいものだ。私みたいなつまらぬ人間でも、ほんの少し精神的に生きてきただけで、年をとってからのほうが、人生万事素晴らしいのだ。昔十年かかったことが一年でできる、かけずりまわってできなかったことでも電話一本でカタがつく。同じ話をしても聞く人の姿勢が違う。同じ一日でさえも密度が違う!

体が衰えてみてはじめて、魂が人間なのだということがわかる。肉体の美しさが去って、はじめて心の美しさがわかる。バラよりも、老松のほうが美しいことがわかる。肉体だけが資本なら、四十歳はもう年寄りだが、精神が資本なら六十歳はまだ少年の域を出ない。私みたいな宗教家の端くれでさえそうだから、ほんとに精神生活をした人の晩年はどんなだろう。

「わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っている。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう」―使徒パウロ―

年をとったら、自分を楽しませることしかしなかった人と、人を喜ばせることを心がけた人の差が、はっきりと出る。

楽しみは肉体的だが、喜びは精神のものだ。年齢には関係がない。

(中国新聞 1982年8月24日掲載)

(C)新生宣教団

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植竹利侑

植竹利侑

(うえたけ・としゆき)

広島キリスト教会名誉牧師。1931年東京生まれ。東京聖書神学院、ヘブンリーピープル神学大学卒業。1962年から2001年まで広島刑務所教誨師。1993年矯正事業貢献のため藍綬褒章受賞。94年特別養護老人ホーム「輝き」創設。著書に『受難週のキリスト』(81年、教会新報社)、『劣等生大歓迎』(89年、新生運動)、『現代つじ説法』(90年、新生宣教団)、『十字架のキリスト』(92年、新生運動)、『十字架のことば』(93年、マルコーシュ・パブリケーション)。(2019年1月26日死去、プロフィールは執筆当時のものです)