ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネの福音書1章14節)
永遠の神である存在(ロゴス=ことば)が、目に見える人間の姿(肉体)をとってこの世界に現れ、私たちと共に歩んでくださいました。
神は「ことば」で天と地とその中にある被造物を創造されました。創造主なる神の発する「ことば」には、無から有を生み出し、語ったことを100パーセント実現させる絶対的な権威とエネルギーがあります。
神の「ことば」は力があり、生きて働いているので、全ては神の「ことば」の通りになっていきます。
そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。(ヘブル人への手紙6章17節)
イエス・キリストは、天の御国で父なる神の右に着座しておられ、大祭司として御国を統治されており、神を信じる私たちを御国に入れてくださる救い主です。
事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル人への手紙11章16節)
聖書は、この地上に生きる私たちを「旅人」や「寄留者(一時的な滞在者)」と呼んでいます。私たちの本当の故郷(本籍地)は地上ではなく、天の御国(神の国)にあるからです。
私たちには、永遠の天の御国に入るという確かな希望があります。ですから、人生のはかなさからくる虚無感に支配されることはありません。信仰者の国籍は天にあり、地上は目的地ではなく、旅の途中に過ぎません。
私たちの国籍は天にあります。(ピリピ人の手紙3章20節)
地上での人生は天幕(テント)生活と同じです。なぜなら、地上の全てが一時的なものであり、いつかは必ず消え去るからです。
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。(ヨハネの手紙第一2章15節)
私たちが地上の一時的なものを愛し過ぎてしまうと、天の永遠の神(御父)を愛せなくなる理由があります。
①地上のものは、いずれ消える仮の住まい(テント)です。キャンプで一晩だけ張るテントに、多額のお金をかけて最高級の家具や大理石の床を敷き詰める人はいません。なぜなら、明日には去る場所だからです。
この世とは、いつか撤去される天幕です。そこにある富、名誉、快楽を愛し、執着することは、消え去るテントに人生の全てのエネルギーや時間、心を投資するようなものです。
②世への愛と神への愛は、同時に心の王座に座れません。聖書は、私たちの心がどちらに向いているかを問いかけています。世を愛するとは、目に見える一時的なもの(お金、他人の評価、自分の欲望)で心を満たそうとすることです。
そして御父を愛するとは、目に見えない永遠のもの(神の愛、真理、神の国)を喜びとすることです。
この2つは方向が真逆です。一時的な世の魅力に心を奪われているとき、私たちの心には永遠の御父を受け入れるスペース(愛)がなくなってしまいます。
③次のヨハネの言葉は、地上にあるものは全てなくなるという結論へと続いていきます。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(持ち物の誇り)は、御父から出たものではなく、世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者はいつまでも生き続けます。(ヨハネの手紙第一2章16、17節)
神の御子イエスは私たちのために、十字架の死と復活により、完全なる愛と救いを完成してくださいました。
全てを完成された神が私たちに望んでいることは、死に至るまで神に忠実であることです。自分の命を捨て、自分の十字架を負って神についていき、天の御国に入るのか。それとも、世と世の欲を愛して、地の下に落ちていくのか。私たちは、そのどちらか1つを選択しなければいけません。
主は、私たちがこの地上で主を選び取り、永遠に御国で主と共に過ごす祝福を受け取ることを望んでおられます。
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