2026年7月19日15時52分

キリストの声を聞き分ける 穂森幸一

コラムニスト : 穂森幸一

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。(ヨハネ10:27)

これは昔の話ですが、ヨルダンに行き、アンマンの市街地にあるホテルに宿泊していたときの経験です。早朝に外の拡声器から大音量でアラビア語の祈りのような音声が流れてきて、びっくりして飛び起きたことがあります。

朝食の時、周りの人に話を聞いても、誰も驚いていないのです。それどころか「あれは祈りの時間を知らせるありがたいアナウンスだよ」と言うものですから、訳が分からなくなったことがあります。

朝方、ヨルダンの農村部に行きますと、ちょうど羊飼いが羊を放牧地に連れ出すところでした。ところが、ほとんどの農家が一斉に羊を連れ出すものですから、道路は羊のラッシュアワーになってしまいました。

これではどこの家の羊か分からなくなるのではないかと心配になって、その後をついていきました。放牧地に入った瞬間、きれいに分かれていきました。

あまりの見事さにびっくりして、どうしてこのようなことができるのか聞きました。そうすると、羊飼いは声を発していて羊はその声を聞いているから、間違ってもよその家の群れに入ることはないということでした。

私にはどの羊飼いも同じように聞こえたのですが、羊はちゃんと聞き分けていました。キリストの声を聞いているつもりでも、他の声に惑わされてしまうのは人間の持つ弱さかもしれないと思います。

ヨルダンとエジプトを旅行した後、米国の航空会社の飛行機に乗ることがありました。アラビア語に囲まれた生活の中で英語のアナウンスを聞いたとき、「意味が分かる」と思ってほっとした気持ちになった経験があります。

自分にとって母国語ではなくとも、「分かる」というだけで気持ちが安らぐのです。ましてや異国の地できれいな母国語を聞いたら、感動してしまいます。

私は自分の研究資料の一つにコーランが欲しいと思っていました。アラビア語が分かりませんので、日本語のコーランがないかと思ったのですが、意外な事実に気付きました。コーランは、アラビア語以外に訳したものはコーランと呼ばないそうです。

礼拝での朗読も全てアラビア語でないとだめだそうです。また、アラビア語も方言があり、エジプトで使われているアラビア語とサウジアラビアのものは違うそうです。もともとコーランが記された正統のアラビア語以外はだめだそうです。

たまたまコーランを日本語に訳した人に出会う機会があり、和訳の本を見せてもらいました。そうすると「これはコーランではありません。コーランモドキです。参考資料にしてください」と言ってプレゼントしてくださいました。

なぜ翻訳を認めないのだろうか、なぜ礼拝で朗読が許されないのだろうかと不思議でした。恐らく認めてしまったら、解釈の違いにより、分裂分派が激しくなるのだろうかなどと考えてしまいました。

カトリック教会でもつい最近まで神父はラテン語の聖書を読み、ラテン語の祈りをしていました。信徒の方々も、ラテン語の祈りを耳にしても不思議に思わず、納得していたように思います。

もしラテン語が分からなければ、神父の役割は果たせない状態でした。もちろん、改革が行われ、今では日本語に訳された聖書が用いられ、日本語で祈りも行われています。神父さんの中には、今でも個人的に礼拝するときはラテン語の祈りをささげている方もいるそうです。

仏教界でも同じような傾向があります。古いインドの言葉、サンスクリット語でお経を読んでいます。原語を守り続ける何か特別の理由があるのかもしれません。

ウィクリフ聖書翻訳協会というところが、まだ聖書が翻訳されていない言語に聖書を翻訳するというとても根気のいる事業を行っています。とても大変な働きですが、世界の隅々に福音を届ける大切な役割を果たしておられます。

現在、世界で旧新約聖書が776の言語に翻訳されているそうです。分冊訳などを含めますと4007の言語に御言葉が訳されているのは驚きです。自分の言語で聖書を読むことにより、聖書が身近な存在になります。

自分の言語で聖書が読めるというのはとてもありがたいのですが、文字の表面だけ読み込んで、全て分かったかのような錯覚に陥ることがあるのではないかと危惧しています。その言葉の記された文化的な背景、歴史的な側面なども併せて学ぶことが必要です。

主イエスが語られたのは、ヘブライ語の方言であるアラム語です。しかし、当時の聖書記者たちは、ヘレニズム文化圏にいましたので、新約聖書をギリシャ語で著していきました。

ヘレニズム文化は西欧社会の本流になっていきました。一方、東方の教会ではアラム語の福音書が用いられるところもありました。

西欧の教会では、福音書のイエスの教えの受け止め方で度々論争がありました。しかし、イエスの語られた教えをアラム語で読んだ東方教会では、ほとんど解釈論争が起こらなかったといわれます。

私たちは、自分の中にある先入観や基準ではなく、へりくだってキリストの声に耳を傾ける姿勢が求められています。そのためには、早朝の静かな時間を大切にするとか、日常の生活から離れてリトリートの時間をとるなどして、静かなる神の声に耳を澄まさなければなりません。

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)

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※ 本コラムでは、特に断りのない限り、聖書の引用は新改訳(第3版)を使用しています。

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穂森幸一

穂森幸一

(ほもり・こういち)

1973年、大阪聖書学院卒業。75年から96年まで鹿児島キリストの教会牧師。88年から鹿児島県内のホテル、結婚式場でチャペル結婚式の司式に従事する。2007年、株式会社カナルファを設立。09年には鹿児島県知事より、「花と音楽に包まれて故人を送り出すキリスト教葬儀の企画、施工」というテーマにより経営革新計画の承認を受ける。著書に『備えてくださる神さま』(1975年、いのちのことば社)、『よりよい夫婦関係を築くために―聖書に学ぶ結婚カウンセリング』(2002年、イーグレープ)。

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