2026年7月2日14時59分

神学の限界と突破口(6)第1章 主な論争と解決─「信仰と行い」の論争 三谷和司

コラムニスト : 三谷和司

聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用する。そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に本書独自の「略語」を用いる。

─「信仰と行い」の論争─

聖書の言葉の「表層」だけを見ると、矛盾して見える箇所は多々ある。例えば、「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ローマ3:28)と語る一方で、「行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2:26)とも語られる。「信仰」を強調する神の言葉が、同時に「行い」を迫るのである。こうした「表層」の矛盾を巡って、神学は対立を繰り返してきた。

しかし、対立の原因は、神の言葉の「表層」の矛盾にあるのではない。それを受け取る人間側の「霊的構造」を見落としてきたことにある。ここでいう「霊的構造」とは、神との関係における「人の状態」を指す。前回の「聖霊論」の論争では、「霊的構造」を視座に据えて読み直すことで、対立が完全に統合されることを確認した。この統合原則は、今回の「信仰と行い」の論争にも全く同じように当てはまる。

「信仰と行い」の論争とは、人が義とされる根拠を巡る神学的対立である。実はこの論争の始まりは、イエスの時代にまでさかのぼる。そこで、その歴史から考察を進める。まずは、論争の起源からである。

【論争の起源】

誰もが人を評価する際は「行い」という物差しを用いる。「行い」が良ければ価値ある人と判断し、「報酬」を与えるべきと考える。「行い」が悪ければ価値のない人と判断し、「罰」を与えるべきと考える。これが「人間的な標準」であり、そこには「罪には罰」という考えが横たわっている。

問題は、「人間的な標準」で人を知るように、「人間的な標準」で神の思いも知ろうとしてしまうことである。そのため、律法の「行い」が神から啓示されると、人はそれをどれだけ実行できるかが自分の価値だと考え、その価値に応じて神から「報酬」が得られると思い込んでしまった。多くの律法を神は啓示されたゆえ、その律法の「行い」によって人は義と認められ、人は救われるのだと思うようになった。

◆ イエスが示された律法の基準

そのような中、神が人となって来られた。その方がイエスであり、イエスは、その考えが誤りであることを教えるために、神の律法がいかに厳格であるかを示された。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21、22)

ここでイエスは、「人を殺してはならない」という律法の範囲は、兄弟に向かって「腹を立てる者」「『能なし』と言うような者」「『ばか者』と言うような者」まで含まれるとし、その者たちは人を殺したのと同じであるとされた。これでは、神の律法が求める「行い」を誰一人として全うすることなどできない。

さらにイエスは、「『姦淫(かんいん)してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5:27、28)とまで言われた。そうなると、一体誰が、自分の「行い」は正しいと胸を張り、神から「報酬」が受け取れると言えるのか。そのようなことは不可能である。

◆ イエスが示された救いの道

イエスが示された律法の基準の前では、全ての人が「罪人」とならざるを得なかった。もはや律法の「行い」で救われるという「道」は断念するしかなかった。そこでイエスは、人が救われる「道」を新たに示された。それは、ご自分を信じることであると。つまり、「わたし」こそが神のもとに通じる「道」であると、宣言されたのである。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

ここに、律法の「行い」によって人は救われると信じていた人たちと、イエスとの間に、聖書の解釈を巡る対立が起きた。これが、「信仰と行い」の論争の起源である。この対立はエスカレートし、ついにイエスは殺されてしまった。その後、「信仰と行い」の論争はパウロに引き継がれていく。

【パウロが引き継いだ論争】

「信仰と行い」の論争を引き継ぎ、人は律法の「行い」によっては救われないと訴えたのがパウロである。しかし、イエスと出会う以前のパウロは熱心なパリサイ人で、律法の「行い」によって人は救われると固く信じていた。それ故、イエスの教えを信じる者たちを異端として迫害し、捕らえていた。

ところが、迫害のためにダマスコへ向かって行くと、天からの強い光に照らされて倒れ、イエスの声を聞き、イエスと出会った。こうしてパウロは、イエスは神であることを知り、バプテスマを受け、キリスト者となったのである(使徒9:1〜19)。

この出来事を通し、パウロは真剣に考えた。イエスに対する誤解が、なぜ自分の中に起きてしまったのかを。そして神から教えられた。人の価値を「行い」で測る「人間的な標準」で人を知るように、キリストを知ろうとしてしまったからであると。そこで、パウロは自己反省を込め、次のようにつづったのである。

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(Ⅱコリント5:16)

それ以来、パウロは徹底して律法の「行い」で人が救われると信じている人たちと戦った。故に、「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ローマ3:28)と宣言した。ならば律法は何のためにあるのかという問いが生じるが、パウロはそれを次のように教えたのである。

こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ3:24)

ここでパウロは、律法の「行い」は、人を救うためにあるのではなく、律法の「行い」ができない限界を人に認めさせるためにあるとした。それは、神にあわれみを乞う信仰に導き、信仰で神からの義(救い)を受け取らせるためであると説いた。

イエスも、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈った取税人が義とされた譬(たと)えを語られた。つまり、「人の価値は行い」では決まらないのである。それ故、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と神は言われる。これこそが「神の標準」である。

このように、パウロは自らの反省を込め、イエスと同じように、律法の「行い」では人が救われないことを示した。これで論争は収束したかに思えたが、事態はそう単純ではなかった。新約聖書が完成すると、その後はイエスを信じないパリサイ人たちとではなく、イエスを信じる者たちとの間で、新たな論争が生まれたのである。

【新たな論争】

イエスは、律法の「行い」で人は救われないことを教えられた。パウロも、自らの反省を込め、イエスと同じことを繰り返し教えた。それ故、もう律法の「行い」で人は救われるという者との論争はなくなったかのように見えた。だが、そうではなかった。パウロ亡き後に新約聖書が完成すると、再び同じ論争が、今度はイエスを信じるキリスト者の間で発生したのである。その経緯は、次の通りである。

誰もが、無自覚のうちに「人間的な標準」の物差しで新約聖書を読んでしまう。ところが、その物差しでパウロが書いた、「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)を読むと、救いには努力する「行い」は不要であるという誤解が生じてしまう。

なぜなら、「人間的な標準」では、「行い=努力」であり、「信仰=信じるだけ」となるからである。そのため、「人間的な標準」の前では、パウロの言葉が「救いには努力する行いは不要」と読めてしまう。

そうなると、救いに必要な「信仰」という言葉の背後にある「行い」の構造が見えなくなるため、ヤコブが書いた「行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2:26)とは矛盾した教えに思えてしまう。事実、この視点が欠落していたため、ルターはヤコブ書を「わらの書」と批判するに至った。これが、キリスト者の中に起きた新たな論争であり、それは今日に至っても続いている。

このように、「人間的な標準」という物差しで、「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)を読むと、「行い」は不要となり、「信仰」の言葉を支えている「行い」が見えなくなってしまい、「行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2:26)と対立しているように思えてしまう。

「人間的な標準」で聖書を読めば、パウロの言葉からは「行いは不要」という結論が導かれ、ヤコブの言葉からは「行いが救いの条件」という真逆の結論が導かれてしまうのである。こうして、キリスト教界は真っ二つに対立することとなった。

しかし、信じて救われるには、その「信仰」を起動させるための律法の「行い」が必要である。それ故ヤコブ書には、「行いのない信仰は、死んでいるのです」と書かれている。このことは、人の現状の「霊的構造」が分かれば容易に知ることができる。

【現状の「霊的構造」】

人の存在を可能にしているのは神である。その神との関係の仕組みを「霊的構造」という。その構造は、神が人の土台となり、人を生かすというものである。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17:28)。

神が「ぶどうの木」であれば、人はその「枝」である。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)。これは、神が土地のちりで人の「体」を造り、そこにご自分の「いのち」を貸し与え、それを「魂」として人を支え、動かされたことで始まった。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(創世記2:7)。まことに人の「霊的構造」は、「永遠性」の神と一つであり、神の「永遠性」の中に置かれていた。

ところが、悪魔の仕業で人は罪を犯し、それに伴って「死」が入り、「罪によって死が入り」(ローマ5:12)、人の「体」も世界も朽ちるしかない「有限性」へと変質した。この「有限性」の「体」では「永遠性」の神を認識できないため、その結果、人は「不安」を覚えるようになった。

加えて、「体」が朽ちれば、神から貸し与えられた神の「いのち」である「魂」は居場所を失うために、返却を要求される。それ故イエスは「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」(ルカ12:20)と宣告された。

「取り去られる」の原語は「アパイテオー」[ἀπαιτέω]で、「返却を要求する」という意味であり、「体」が朽ちれば、「魂」は神に返却されるのである。そうなると、「魂」と「体」によって機能していた人である意識(精神)は消滅する。これこそが、現状の「霊的構造」にほかならない。

このように、人における現状の「霊的構造」は、「体」が朽ちると同時に人は存在しなくなるというものであった。これを、「神と分離している状態」という。この現状を踏まえると、人が救われるためには、すなわち「有限性」から再び「永遠性」に移されるためには、必ず越えなければならない問題が浮かび上がってくる。その問題が何であるかが分かれば、「信仰」を支えている律法の「行い」を容易に知ることができる。

【越えなければならない問題】

人の「体」も世界も朽ちるしかない「有限性」になり、「死の世界」に閉じ込められてしまった。そこからはもう、自力では決して抜け出せない。ただ、「体」が朽ちて滅びるのを待つだけである。それでも、「体」が朽ちるまでは神の「いのち」である「魂」に支えられているため、その「魂」は人に神を求めさせる。それで「神よ、わたしの魂はあなたを求める」(詩篇42:2、新共同訳)とある。

この「魂」によって、人は何としても神に近づこうとする。「死の世界」から「いのちの世界」に、自力で移ろうとする。一言で言えば、「永遠のいのち」を自力で獲得しようとする。

しかし、それは不可能であるゆえ、それを試みようとしていたアダムを見た神は、「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」(創世記3:22)と言われた。

ならば、どうすれば「死の世界」から脱け出すことができ、「いのちの世界」、すなわち「永遠のいのち」を獲得できるのか。要するに、どうすれば人は神に近づくことができるのか、である。

その手段は一つしかない。それは、神に引き寄せられることである。「父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」(ヨハネ6:44)。従って、「永遠のいのち」を獲得する救いは、神が人を引き寄せてくださる御手につかまる「信仰」にしかない。それ故聖書に、「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)と記されている。

ところが、神が救いの御手を差し伸べても、人がそれにつかまろうとはしないのである。これこそが、人が越えなければならない最大の問題なのである。

◆ 神の御手につかまらない

この問題は、悪魔の仕業で「死」が入り込んで以来、人の「体」も世界も「有限性」となり、「有限性」の世界しか見えなくなったことに起因する。「有限性」の世界とは、あらゆるものに制限があるため、容貌や能力が定まった世界である。

それ故、そこでは互いを比較できる。例えば、「有限性」の世界では、人の余命には限界があるため、互いの余命を比較でき、一喜一憂する。しかし、「永遠性」の世界では、互いの余命を比較することなどできない。

このように、「有限性」の制約下においては互いを比較することが可能であるため、人は比較の中で幸せを求めることに終始する。そのため、神が救いの御手を差し伸べてもつかまろうとはしないのである。この霊的なメカニズムについて、具体例で説明したい。

学校のテストには、「時間」という制限がある。その制限のおかげで、何点取れるかを競うことができ、個々の能力を比較できる。しかし、「時間」の制限がなければ、そこに優劣の差を見いだすことはできない。いつまでたっても点数が定まらないからである。

つまり、「時間」の制限のない世界では、比較は成立しないのである。だが、私たちが暮らす「有限性」の世界は「時間」の制限があるため、その制限の下では、互いの能力や行いを比較できてしまう。その結果、「人の価値は行いで決まる」という「人間的な標準」が生まれ、互いの能力や行いの「うわべ」を競い合うようになった。

こうして、人は自分の「うわべ」が周囲より少しでも優れていると確認できれば、自分に価値を見いだし「安心」するようになった。そのため、少しでも優れている容貌、学歴、社会的地位、車や家、そうしたものを手にしようと、一生懸命「行い」を頑張る。そして、周りから「わー、すごい!」と言われることを目指す。

ここに「人の価値は行い」で決まり、その価値に応じて「報酬」が得られるという公式が生まれ、それが「人間的な標準」となった。そして人々は、律法の「行い」で「永遠のいのち」の「報酬」も得ようとしたのである。

このような状況では、いくら神が人に呼びかけ、天に引き寄せる御手を差し伸べたところでその手を握ろうとはしない。神の御手につかまる「信仰」が生じない。これこそが、越えなければならない最大の問題である。

そこで神は、人がこの問題を乗り越えられるように手を打たれた。それを知れば、神への「信仰」を裏で支えている「行い」があることが分かる。

【神が打たれた手】

「有限性」の世界では比較が可能であるゆえ、人は自らの「行い」で自らの価値を獲得し「報酬」を得ようとする。これが「人間的な標準」であるため、神に対しても自らの「行い」で救いの「報酬」を得ようとする。

そこで神が打たれた手は、この「人間的な標準」を逆手に取ることであった。つまり、自らの「行い」で救いの「報酬」を得ようとするのなら、「ならば、やってみろ!」と、人には実行不可能な「行い」を律法とし、それを人にぶつけることであった。

例えば、イエスは「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)という律法を人にぶつけられた。一体、誰がこれを100パーセント実行できるというのか。

そもそも神の要求は100パーセントであって、神が示した律法の99パーセントを実行できたとしても、それではダメなのである。それでは、全くできなかったと見なされてしまう。「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」(ヤコブ2:10)。これはもう、神の律法は実行不可能である。

しかし、実行不可能であれば、人は自らの限界を悟り、神の前にへりくだることができる。そうなれば、天に引き寄せる御手につかまる「信仰」が人の中に起動する。それ故に、実行不可能な神の律法を、預言者を通して神は人に啓示されたのである(聖書)。

それだけではない。神は人の心に内側からも律法を語りかけ「律法の命じる行いが彼らの心に書かれている」(ローマ2:15)、それが良心となって人の心を責め立てるようにもされた。「彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合った」(ローマ2:15)。そうすることで、誰も神の律法からは逃れられなくさせた。これが、神の打たれた手である。あとは、神は待つだけである。

人は、神の律法で責め立てられ、良心に従い神の律法の「行い」を全うしようとすれば、それができない「苦しみ」を覚えるしかない。自分の限界に気付き、神の前にへりくだって、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈るしかない。これが救いに必要な「信仰」であり、神の救いの御手をつかむ瞬間である。神は、これを待たれたのである。

このように、律法の「行い」が人の中に「苦しみ」を覚えさせ、救いに必要な「信仰」を起動させるのである。それで聖書に、「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」(ガラテヤ3:24)とある。これこそが、神が打たれた手であった。

◆「苦しみ」が「信仰」を起動させる

大事なことは、「苦しみ」を覚えると、神により頼む「信仰」が起動するということである。それは体の「苦しみ」を覚えるからこそ医者に心が向き、医者にすがることができるのと同じである。

従って、律法の「行い」を実行することで生じる「苦しみ」こそ、心を神に向けさせる羅針盤であって、神からの呼びかけなのである。そうであるからこそ、ヤコブ書に「行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2:26)と記されている。

つまり、神の救いの義を受け取る「信仰」が人の中で起動するには、律法の「行い」のプロセスが不可欠である。律法に従わなければ、そもそも罪を意識することすらできないので「苦しみ」が生じない。「罪は、何かの律法がなければ、認められないものです」(ローマ5:13)。「苦しみ」が生じなければ、神の呼びかけに応答する「信仰」も起動しない。

それ故、「信仰」には、自分の罪を認められる律法の「行い」のプロセスが不可欠となる。誤解してはならないのは、「行い」が人を救うというわけではなく、「行い」が自分の限界を悟らせ、神にあわれみを乞わせるために必要になるということである。あくまでも救いに必要なのは「信仰」であり、その「信仰」を起動するために「行い」が必要とされる、という話である。

この仕組みを、パウロは誰よりも熟知していたからこそ、「信仰で救われる」ことを主張すると同時に、「信仰」には神の命令を行う「従順」が必要であるとし、「信仰の従順」(ローマ1:5)という言葉を用いていた。

さらには、「信仰」が全世界に伝えられることを「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている」(ローマ1:8)と述べ、それを今度は同じローマ書で、「信仰」を「従順」と言い換えている。「あなたがたの従順はすべての人に知られている」(ローマ16:19)。これは、「信仰」が起動するには、律法の「行い」を「従順」に実行する必要があることを示している。

まことに「信仰」と「行い」は対立するのではなく、「行い」が「信仰」を目覚めさせ、救いの実を結ぶという霊的プロセスになる。それは、まるでコインの裏表のようである。故に、「信仰」の重要性を訴えたイエスご自身も、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(マタイ5:17)と語られたのである。

このように、神が打たれた手は、律法の「行い」を突きつけ、そのことで人を苦しめ、神が差し出す救いの御手につかませる「信仰」を起動させることであった。というのも、人の「霊的構造」の現状では、互いの「行い」を比べ、それによって「報酬」が得られるという幻想を抱いてしまうからである。

例えば、パリサイ人のように「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」(ルカ18:11)と誇ってしまう。神は、その幻想を打ち砕くために、人には実行不可能な律法の「行い」を突きつけ、苦しめたのである。

従って、パウロが述べている救いに必要な「信仰」という言葉には、それを支えている律法の「行い」が前提として存在している。しかし、「人間的な標準」の眼鏡では御言葉の「表層」しか見えないため、ここに「信仰と行い」の論争が起き、対立が生まれてしまった。

だが、御言葉を受け取る人の「霊的構造」が分かれば対立は起きない。対立を解決する鍵は、まさに「霊的構造」を視座にした読み直しであり、そこでは論争は統合される。

【論争の統合】

人の「霊的構造」で特に重要なことは、次の二点である。第一に、人は「有限性」の世界に閉じ込められており、自力では「永遠性」の世界に到達できないことである。これがパウロの「信仰で救われる」という御言葉の「表層」を生み出した。

第二に、人は「有限性」の世界では互いの「うわべ」を比較してしまうことである。その結果、人はより良い「行い」によって安心を得ようとするため、神の御手につかまろうとはしなくなった。

そこで神は、人の偽りの安心を砕き、心を神に向けさせるために律法の「行い」を要求された。律法の「行い」を実行することで自分の限界を悟らせ、「苦しみ」を覚えさせ、神の御手につかまる「信仰」を目覚めさせるのである。これがヤコブの「行いのない信仰は、死んでいるのです」という「表層」を生み出した。

ここで注意しなければならないことは、人を救うのは律法の「行い」ではなく、あくまでも神の御手につかまる「信仰」であるということである。その「信仰」を目覚めさせるのに律法の「行い」が必要となるに過ぎない。そして、その律法の「行い」を、神は人の心の中にまで突きつけてこられるため、誰も逃げられないということである。以上のことを知るなら、「信仰と行い」の論争は統合される。

神学の限界と突破口(6)第1章 主な論争と解決─「信仰と行い」の論争 三谷和司

ここで、もう一つ触れておくべき重要な解釈がある。それは「行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2:26)の一般的な解釈である。人は「信仰」を持つと内面が変化し、それに伴い「行い」も変わり、困っている兄弟姉妹を助けるようになるという解釈である。

従って、「信仰」の真偽は「行い」で判断できると考える。それ故、「行い」の伴わない人は「信仰」がないとされ、その「信仰」は死んでいると判断する。それが「行いのない信仰は、死んでいるのです」の意味だとする。

しかし、これは「人間的な標準」を物差しにした解釈であり、「行い」を救いの条件に近づけてしまう危険をはらんでいる。ひいては、その人が救われたかどうかが、「行い」で判断される危険性すらはらんでいる。

だが、この一般的な解釈は、イエスが言われた、「良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません」(マタイ7:18)という言葉を引き合いに出されることが多い。確かに、この言葉の「表層」だけを見れば、「良い実」を結んでいない人は救われていないとも読めなくはない。

ならば、イエスが言われた “救われた人は「良い実」を結ぶ” という「良い実」とは何なのだろう。ここでの理解をさらに深めるために、以下に付録として詳述する。

付録:【「良い実」とは何か】

この世界で「良い実」というと、それは道徳的な「良い行い」を指す。しかし聖書における「良い実」とは、隣人を愛することを指す。それ故、バプテスマのヨハネが「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます」(ルカ3:9)と言った際、ならば何をすればよいのかと群衆が尋ねてきたことから、ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい」(ルカ3:11)と答えた。人々はこれを、「救われるためには、この良い行いをしなければならない」という意味に理解した。

だが、ヨハネの命令を文字通り実行しようとすれば、自分には到底できないことにすぐ気付く。この「できない」という体験こそが人を神の前にへりくだらせ、神にあわれみを乞わせる。これが律法の役割であるゆえ、聖書は「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」(ガラテヤ3:24)と教える。

以上のように、「隣人を愛せよ」という律法の命令を実行しようとすると、自分の限界に気付き、神にあわれみを乞うしかなくなる。故に、ここで求められている「良い実」とは、隣人を愛せるかということではなく、自らの限界に気付き、神の前にへりくだり、神にあわれみを乞うことで神と結び付くことを指す。神にあわれみを乞うことを「信仰」という。

そして、この神との結び付きは、自らの限界に気付き、神にあわれみを乞うたびに強くなっていく。そのため、「良い実」は増えていく。これを「平安な義の実」(ヘブル12:11)を結ぶようになるという。

よって、「良い実」とは、キリストと結び付くことであり、この「良い実」を結ばせる行い(限界を知ること)こそが「良い行い」である。それは、自らの限界を知る行いであり、神の前に罪を認められる行いである。

しかし、人はこの世界の習わしに従い、「良い実」を周りから評価されることだと勘違いし、人から評価される実を結ばせる行いが「良い行い」であると思い込んでしまった。そのため、自分が救われて天国に行けるかどうかを、どれだけ周りから評価される「行い」ができるかで確認するようになった。あのパリサイ人のように、である。「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」(ルカ18:12)

ところが、神が求めていた「良い行い」は、自分の限界を知り、神の前にへりくだり、神と結び付く「良い実」を実らせるプロセスである。故にイエスは、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈った取税人を義とすると言われたのである。まことに、取税人の行いこそが「良い行い」であった。それで彼は、神から義とされる「良い実」(神との結合)を結ぶことができた。

つまり、自分の罪を知るために、律法の行いを真面目に実行することが「良い行い」であり、それは自分の限界(罪)に気付かせてくれるため、神への偽りのない「信仰」を起動させ、神と結び付く「良い実」を実らせる。それでヤコブ書に「行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2:26)とある。

救いに必要な「信仰」を起動させるには、自分の限界(罪)に気付かせる「行い」のプロセスが欠かせないということである。そこでパウロは「信仰の従順」(ローマ1:5)を説き、「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係」(ガラテヤ3:24)と位置付けたのである。

従って、神が言われる「行い」とは、偽りのない「信仰」を起動させる「行い」である。自らの限界を深く悟らせる「行い」である。その目的が集約された「行い」が「隣人を愛せよ」であったことから、神はこれを最大の戒めとした。「第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません」(マルコ12:31、新改訳2017)

「隣人を愛せよ」という戒めを真摯(しんし)に実行する「行い」が、それができない自分の罪を明らかにし、神にあわれみを乞う「信仰」を起動させ、神と結び付く「良い実」を実らせてくれるのである。

神学の限界と突破口(6)第1章 主な論争と解決─「信仰と行い」の論争 三谷和司

このように、「良い実」とは神と結び付くことであり、神との結び付きは自らの罪に気付き、神にあわれみを乞うたびに強くなっていく。そして、この「良い実」だけが朽ちない永遠の宝となる。

イエスが「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます」(マタイ7:19)と警告された理由はここにある。「良い実を結ばない」とは、神との結び付きを持たないことであり、それでは滅びるほかないため、そのように宣告されたのである。パウロもまた、この真理を次のように教えている。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。(Ⅰコリント13:3)

ここでの「愛」は神ご自身を指し、「愛がなければ」とは「神との結び付きを持たなければ」ということである。神との結び付きを持たない「行い」がいかに立派であっても、その人は滅びるほかない。それ故、「何の役にも立ちません」と教えた。

次回は、ここまで見てきた「主な論争」の総括をする(続く)。

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三谷和司

三谷和司

(みたに・かずし)

神木(しぼく)イエス・キリスト教会主任牧師。ノア・ミュージック・ミニストリー代表。1956年生まれ。1980年、関西学院大学神学部卒業。1983年、米国の神学校「Christ For The Nations Institute」卒業。1983年、川崎の実家にて開拓伝道開始。1984年、川崎市に「宮前チャペル」献堂。1985年、ノア・ミュージック・ミニストリー開始。1993年、静岡県に「掛川チャペル」献堂。2004年、横浜市に「青葉チャペル」献堂。著書に『賛美の回復』(1994年、キリスト新聞社)、その他、キリスト新聞、雑誌『恵みの雨』などで連載記事。

新しい時代にあった日本人のための賛美を手がけ、オリジナルの賛美CDを数多く発表している。発表された賛美はすべて著作権法に基づき、SGM(Sharing Gospel Music)に指定されているので、キリスト教教化の目的のためなら誰もが自由に使用できる。

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