聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用する。そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に本書独自の「略語」を用いる。
─「贖罪論」の論争─
聖書の言葉の「表層」だけを見ると、矛盾して見える箇所は多々ある。例えば、「あなたは、咎(とが)を赦(ゆる)し」(ミカ7:18)と語る一方で、「主は復讐し、憤る方」(ナホム1:2)とも語られる。「赦し」を宣言する神が、同時に「復讐」を宣告するのである。こうした「表層」の矛盾を巡って、神学は対立を繰り返してきた。
しかし、対立の原因は、神の言葉そのものにあるのではない。それを受け取る人間側の「霊的構造」を見落としてきたことにある。ここでいう「霊的構造」とは、神との関係における「人の状態」を指す。
前回の「終末論」の論争では、「霊的構造」を視座に据えて読み直すことで、対立が完全に統合されることを確認した。この統合原則は、今回の「贖罪論」の論争にも全く同じように当てはまる。
「贖罪論」とは、キリストの十字架の死が、どのようにして神と人を和解させるのかを説明する神学の総称である。そこでの「贖罪」とは、神と人間の和解をもたらすキリストの犠牲の働きを指す。
「贖罪」に関する御言葉の「表層」だけを読むと3つの異なる立場が生まれ、そこには対立が生まれる。しかし、対立は、神が人に語られる言葉の「表層」を支えている人の側の「霊的構造」を見れば、統合される。まずは、対立する3つの立場を確認しておこう。
【対立する3つの立場】
聖書に、次のような御言葉がある。
彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。(イザヤ53:5、6、新共同訳)
他にも、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(Ⅱコリント5:21)とあり、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです」(ローマ3:25)とある。
これらの御言葉の「表層」からは、キリストが人間の罪の罰を代わりに受けてくださり、そのことで神の義が満たされ、人の罪は赦されるという解釈が生まれた。これは「代償説」と呼ばれるもので、アンセルムス(11世紀)の「満足説」が土台になっている。
「満足説」とは、神の名誉が人間の罪によって損なわれたため、その損害を「満足」させる必要があったが、人間には不可能であるゆえ、キリストがそれを代わりに果たしたとする説である。しかし、次のような御言葉がある。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)
他にも、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Ⅰヨハネ3:16)とあり、「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)とある。
これらの御言葉の「表層」からは、キリストの十字架は「神の愛の啓示」であることが分かる。そこで、それが人を悔い改めに導き、愛を実行する者とし、そこに救いが成立するとする解釈が生まれた。
これは「道徳感化説」と呼ばれるもので、アンセルムスの「満足説」に対抗する形で生まれ(11~12世紀)、19世紀の自由主義神学で大きく発展した。つまり、キリストの十字架は「罰」の代わりではなく、人を内側から変えるための十字架であったということである。しかし、次のような御言葉もある。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14、15)
他にも、「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Ⅰヨハネ3:8)とあり、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」(コロサイ2:15)とあり、「死は勝利にのまれた」(Ⅰコリント15:54)とある。
これらの御言葉の「表層」からは、キリストの十字架は悪魔を滅ぼすことで死を滅ぼし、そこに救いが成立することが分かる。この解釈から「勝利者キリスト説」が生まれた。その考えは初代教会の時代からあり、中世までは主流の解釈であった。いったん下火になるも、20世紀になって「勝利者キリスト説」として、グスタフ・アウレン(1879〜1977)によって体系化され、再評価されるに至った。
では、それぞれの立場を簡潔に整理してみたい。
◆「代償説」
キリストが人間の罪の「罰」のために、十字架で代わりに死んでくださったことで、神と人との関係が回復すると考える立場。
◆「道徳感化説」
十字架は神の愛の最高の啓示であり、その愛が人間の心を動かし、悔い改めへ導くことで和解が成立すると考える立場。
◆「勝利者キリスト説」
キリストの十字架の死と復活は、悪魔・罪・死の力に対する勝利であり、その勝利によって人類が解放されると考える立場。
このように、キリストの十字架は一つの事実であっても、十字架の意味を説明している御言葉の「表層」だけを見ると整合性の欠如があるため、どの「表層」を「正」とするかで異なる教理が生まれてしまう。かといって、どれも聖書の記述であるため、どれも「聖書的」であると主張できてしまう。こうして、教理は統合できないまま対立し、今日に至っている。
では、この対立の解決を図りたい。
【対立の解決】
この3つに共通する問題点は、御言葉を受け取る側の人の「霊的構造」を見落とし、御言葉の「表層」だけを読んでいることにある。人の「霊的構造」とは、神との関係における「人の状態」である。
神は「いのち」であるのに、現在の人はその「いのち」ではなく「死」に支配されており、このままでは「滅びるしかない」運命にある。しかし、神が人を造られた当初、「人の状態」は、神の「いのち」に支配され、そこには「死」がなかった。
では、どうして人は「死」に支配されるようになったのか、この現状の「人の状態」を掘り下げる。そうすれば、こうした贖罪の御言葉には全く矛盾がないことが分かる。
◆ 神との分離(「死」の侵入)
神は人を造られた際、「見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)と言われた。そこには、神が人に与えた「いのち」、すなわち「いのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)という事実を、否定する「死」がなかったからである。ところが、その後、悪魔が蛇を使ってエバを欺き、「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(Ⅱコリント11:3)、そのことでアダムに罪を犯させた。
問題は、罪を犯すとはどういうことなのかである。イエスは、「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハネ16:9、新共同訳)と言われたが、神を信じないとは、「神と異なる思い」を持つことである。
「神と異なる思い」を持つと、神と一つである関係は壊れ、人は神と分離してしまう。つまり、悪魔は蛇を使って人に罪を犯させたことで、人は神と分離してしまったのである。
これを、罪によって「死」が入り込むという。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12、新共同訳)
さらに言えば、人が神と分離するということは、人の体が「永遠性」の神が見えない「有限性」の「死の体」になったことを意味する。平たく言えば、裸である自分しか見えなくなったということである。「彼らは自分たちが裸であることを知った」(創世記3:7)
すなわち、人の罪によって「死」が入り込んだことで、人は「死の体」になり、滅ぶしかない「死人」になったのである。「アダムにあってすべての人が死んでいる」(Ⅰコリント15:22)。聖書はこの状態を「罪」とし、それは入り込んだ「死」のとげであったとする。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)
◆「死の恐怖」が罪人を生み出す
悪魔の仕業によって「死」が入り込んだことから、聖書は悪魔を、「死をつかさどる者、つまり悪魔」(ヘブル2:14、新共同訳)とする。この悪魔によって、神と一つであった「霊的構造」は壊され、人の体は神が見えない「死の体」と化してしまった。
その状態では神に愛されている自分が見えないため、人は常に「不安」を覚えるほかなかった。同時に、「死の体」になった自分は、いつ滅びるのだろうと怯え続けることになった。こうした人間の姿こそが、紛れもなく「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」(ヘブル2:15)なのである。
このように、「死」が入り込んだことで人は「不安」を覚え、「死の恐怖」の奴隷となった。しかし、「不安」や「死の恐怖」に耐えられる者などいなかった。そこで人は、それらから目をそらすために快楽を求め、見える安心をむさぼるようになった。
このむさぼりこそが偶像礼拝であり、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」(コロサイ3:5)、人が犯す肉の行いの罪となった。すなわち、人は入り込んだ「死」によって「不安」や「死の恐怖」を覚え、見える安心をむさぼる「罪人」になったのである。
以上が、掘り下げた現状の「人の状態」であり、それはまさしく本来の「人の状態」に「死」が入り込み、神との関係が壊された「霊的構造」である。では、いかにすれば、この壊された「霊的構造」は回復されるのか。
◆ 十字架による回復
「霊的構造」を回復するには、第一に、入り込んだ「死」を滅ぼす必要があった。「死」は、神と人を分離する「罪」であるため、神が人の「罪」を背負い、「死」を滅ぼす必要があった。
そこでキリストは人の「罪」を背負い、「死」を十字架で滅ぼされたのである。これを聖書は、「わたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた」(イザヤ53:6、新共同訳)と表現し、「キリストは死を滅ぼし」(Ⅱテモテ1:10)とした。
そして、「死」を滅ぼした証しが復活であった。ここに、神との和解の道が備えられ、「死の体」に代わる、朽ちない「霊の体」の授与が可能になった。
とはいえ、「霊の体」を着せられ「永遠のいのち」を持つようになっても、天に引き上げられるまでは「有限性」の「死の体」で生きなければならない以上、それまでは「永遠性」の神が肉の目では見えない。
従って、人は神に愛されている自分を確認することができない。これが「不安」の源流であるため、人は見える安心をむさぼる肉の行いの罪を犯し続けるのである。そこで次に、この根源的な「不安」を取り除く必要があった。これが、続く第二のステップである。
第二に、キリストは十字架で、どれだけ人を愛しているかを「見える化」し、「不安」を取り除こうとされたのである。聖書はこれを、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4:10)と表現した。ここに、日々犯してしまう肉の行いの罪が赦される道が備えられた。
しかし、いくら個々の罪が赦されても、そして最後は天に引き上げられたとしても、人を欺いて罪を犯させ「死」を持ち込ませた悪魔が生きている限り、エデンの園でアダムとエバが欺かれて罪を犯してしまった出来事が天で繰り返されてしまう。そうなれば、再び人は神と分離する羽目になる。従って、これでは完全な回復にはならないため、第三のステップが必要であった。
第三に、キリストは十字架で、悪魔を滅ぼさなければならなかったのである。そこで「死」をつかさどる悪魔を、「死をつかさどる者、つまり悪魔を」(ヘブル2:14、新共同訳)、キリストはご自分の十字架の死で滅ぼされた。
聖書はこれを、「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14、15)と表現した。ここに、壊された「霊的構造」の完全な回復があった。
◆ 3つの贖罪論の「統合」
贖罪の御言葉の「表層」だけを見ると、このように矛盾に見えるが、その言葉の「表層」を受け取る側の人の「霊的構造」が分かれば矛盾ではないのである。故に、贖罪理解の対立の原因は、人の「霊的構造」を見落とし、御言葉の「表層」だけを読んだことにある。
従って、問題の解決は、人の「霊的構造」を視座に据えて読み直すことにこそある。そうすれば、贖罪に関するどの御言葉の「表層」も欠けてはならないことが分かる。いずれの御言葉も、悪魔の仕業によって壊された人の「霊的構造」の完全な回復には欠かせない神の御業であり、神との和解に不可欠であることが明らかになる。この関係を整理すると、次表のようになる。
| 贖罪論 | 何に主眼を置くか | 「霊的構造」の完全な回復 |
|---|---|---|
| 「代償説」 | 罪の赦し:イザヤ53:5、6 | 第一に:「罪」(死)の除去 |
| 「道徳感化説」 | 愛の啓示:Ⅰヨハネ4:10 | 第二に:「不安」の除去 |
| 「勝利者キリスト説」 | 悪魔の滅び:ヘブル2:14、15 | 第三に:悪魔の除去 |
まことに、人の「霊的構造」を回復するには3つのステップが必要であることから、聖書には3つの「贖罪」に関する御言葉の「表層」が書かれている。第一に、「死の体」に代わる「霊の体」を着せ、「罪」(死)を除去することでの回復、第二に、入り込んでしまった「不安」と「死の恐怖」を神の愛で除去することでの回復、第三に、「死」の源である悪魔を十字架で除去することでの回復である。
◆ 罪は「病気」である
今日最も人気があるのは、キリストは私たちの罪の罰を代わりに背負ってくださったとする「代償説」である。その根拠に使われる御言葉が、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」(Ⅰペテロ2:24)であるが、そこには「罪をその身に負われました」とあるだけで、「罪の罰」という表記はない。
表記がないのは当然であった。なぜなら、人の「罪」は入り込んだ「死のとげ」(Ⅰコリント15:56)であり、その「死のとげ」は人から出たのではなく、悪魔の仕業によるものにほかならないからである。
従って、罪に対しては「法的な罰」は成立しない。罪は人が自ら作り出したものではなく、悪魔の仕業によって入り込んだ「死」によるものである以上、それは「病気」という位置づけになるのである。
すなわち、「罪人」は、神の目には「病人」として見なされるということである。そうである以上、そこに「罰」など存在しない。それ故、イエスは「罪人」のことを勘違いしていた律法学者に対し、次のように言われたのである。
医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)
つまり、キリストの十字架の打ち傷は、人を癒やすためであった。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。(Ⅰペテロ2:24、新改訳2017)
次回は、「聖霊論」の論争について考察する(続く)。
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