だが、主人は言った。「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」(マタイ13:29、30)
先日、私の知人が、心臓の調子が悪く、病院に運ばれました。心臓だけでなく、脳の状態や消化器も見ておきましょうということで、総合的な検査が行われたそうです。
何度かCTスキャンをかけられ、レントゲン検査を受けているうちに、被ばく量が心配になってきました。検査料も相当な金額になり、これは患者のためよりも病院の経営を優先させているのではないかという疑念が浮かんできたと言っていました。
私の父親が80代になったころ、ドクターに「お父様にがん細胞が見つかりました。切除手術を受けますか。それとも薬で抑えて様子を見ますか」と尋ねられました。私は「もし患者が先生の家族だったら、どちらを勧めますか」と言いました。
そうするとドクターは「様子を見る方だと思います」ということでしたので、私もそのようにお願いしますと申し上げたことがありました。父は94歳で亡くなりましたが、死因はがんではなく、肺炎でした。
切除手術を受けると、正常な細胞まで切除してしまうこともあり、さらに開腹によって患者に負担をかけてしまい、弱らせてしまうこともあるそうです。病巣を取り除くために正常な臓器を傷つけてしまっては本末転倒になります。
この毒麦の例えは、組織運営にも適応できる教えではないかと思います。例えば、教会活動の中で異分子的な発言を繰り返す人がいます。そうすると、あの人がいない方がいいのではないかという意見が大勢を占め、無理に排除する動きを取りますと、組織が衰退する方向につながることがあります。
毒麦なのかそうではないのか、簡単に結論づけるべきではないと思います。異分子と思っていた人が何かの機会に変化して、大きな貢献をしてくれることもあります。
どのような集まりであっても、その会の趣旨を完全に理解し、協力的な姿勢に徹する人はほとんどいないと思った方がいいかもしれません。お互いに理解の足りないところは補い合い、多様性を重んじながら、相手の意見に耳を傾けようとするところに成長が生まれます。
会社であれ、教会であれ、お互いに疑心暗鬼になり、相手の毒麦を抜こうとしても先細りになり、将来的には消滅を迎えるだけです。
鹿児島の宗教者懇和会有志は毎月、祈りの平和巡礼を進めています。ローマ教皇にも祈りの応援団になってもらいたいというリーダーの和尚の願いもあり、ローマ教皇レオ14世に書簡を送ったところ、「どうぞ来てください」という返信がありました。
教皇謁見とバチカンでの桜の植樹が今年の9月に実現することになりました。また、教皇庁には宗教間対話評議会というのがあり、連絡を取り合っていますが、長官から「謁見が終わったあと、評議会の長官室に来てください」と招かれています。
教皇庁宗教間対話評議会の顧問をしておられるイタリア人のシスターが熊本におられるというので、先日、熊本の玉名まで出かけてきました。曲がりくねった山道を登り切った山頂に、諸宗教対話センターというカトリックの修道会が運営している黙想施設がありました。
そこには7、8人が泊まれる宿泊施設と小さな礼拝堂、祈祷室があります。また別棟でお寺の本堂のような座禅道場がありました。和尚さんたちとの座禅会もあるということでした。海外のお客さんもあり、米国からの訪問客やノルウェーの牧師さんの予約も入っているそうです。
ほとんどの入館者がそれぞれに祈りの時を持ち、センター側は施設を提供するが口出しはしないという方針だそうです。館長のイタリア人の神父さんは91歳という高齢の方ですが、穏やかな優しい雰囲気で霊性の高さを感じることができました。
騒がしい世間の物音から遮断され、さわやかな風が吹き抜ける中でたたずんでいますと、祈りに専念できるという理由が分かりました。
日々の活動で精神的に疲れ切っていると、祈る気力すらなくすときもあります。施設にたどり着くと「休ませてください」と言って、畳の間でひたすら眠る人もいるそうです。目を覚まし、食事を提供すると、安心してまた眠ります。そして起き上がって祈りに専念するというのです。
預言者エリヤも疲れ果て、眠っていると御使いが食べ物を用意し、起こしてくれました。Ⅰ列王記19:3〜8の場面を思い起こさせる話です。
館長によりますと、日本の文化や宗教からたくさんのことを学ぶことができ、日本の文化を通して見ると、聖書がより深く理解できるそうです。例えば、箴言の教えは日本の昔からのことわざや例え話に生きているそうです。
福音書の種まきの例え話は、日本の昔の農法でよく分かるし、「あかりを枡(ます)の下に置かず、燭台の上に置く」(マタイ5:15)という話も、欧州の家の構造より昔の日本の家の方がよく分かるというのです。
欧州人は文字で聖書を読んでいたが、昔の日本人は聖書を生きていたというのです。ですから必ず、日本の民には福音が届くというのです。
また、座禅のスタイルで祈った方が、祈りに専念できると語っていました。だから、西洋の聖書の学びと日本の文化が融合することで、世界が行き詰まっている問題に指針が示されるかもしれないというのです。
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。(ヘブル10:23、24)
◇