聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用する。そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に本コラム独自の「略語」を用いる。
第1章 主な論争と解決
本コラムが問題としているのは、個々の教理の是非ではなく、なぜ神学は同じ聖書を用いながら、これほどまでに論争を繰り返してきたのかという点である。本コラムの結論は明確である。論争の原因は、聖書そのものにあるのではない。聖書の言葉を読む私たちが、無自覚に用いてきた「人間的な標準」の眼鏡にある。
具体的には、「人の価値は行いにある」と見なし、「罪には罰が当然である」とする見方である。この眼鏡で聖書の言葉の「表層」を読むと、神の言葉を支えている「霊的構造」が見えなくなり、御言葉同士がたちまち衝突し、整合性を失って見えるのである。
ここでいう「霊的構造」とは、神との関係における「人の状態」を指す。神の言葉は常に人に対して語られているため、どのような「人の状態」を前提にして語られているかを見落とすと、御言葉は必然的に互いに矛盾して映ってしまう。
従来の神学は、この「霊的構造」を見落とし、言葉の「表層」だけを手がかりに「人間的な標準」で解釈してきた。その結果、「表層」の見かけの矛盾を解消できず、論争を統合できないという限界に直面した。やがてそれは対立を生み、キリスト教界の深刻な分裂を招いてきたのである。
例えば、「救済論」では、救いは神の選びによるのか人の自由意志によるのかで、カルバン派、アルミニウス派という分裂を生み出した。「終末論」では、キリストの再臨と千年王国の位置づけを巡って対立し、キリストの十字架の意味を扱う「贖罪論」では「代償説」「道徳感化説」「勝利者キリスト説」の3つの見方が並び立ち、激しく対立した。「聖霊論」では、ペンテコステ派と非ペンテコステ派に分かれ、「信仰と行い」の関係においては、パウロの主張とヤコブ書の言葉との整合を巡って対立してきた。
こうした対立は全て、聖書の言葉の「表層」だけにとどまり、その奥にある「霊的構造」にまで理解が及んでいないことに起因する。第1章では、主な論争を改めて見つめ直し、「霊的構造」を視座に据えて読み直すことで、対立が完全に統合されることを示す。最初に見るのは、「救済論」の論争である。
─「救済論」の論争─
「救済論」とは、「人はどのようにして救われるのか」、すなわち、罪によって神から離れた人間が、どのように神との関係を回復し、永遠のいのちに至るのかを扱う神学の分野である。そこには対立する2つの立場がある。しかし、対立は、神が人に語られる言葉の「表層」を支えている人の側の「霊的構造」を見れば、統合される。まずは、対立する2つの立場を確認しておこう。
【対立する2つの立場】
神が人に語られる言葉を集めたのが「聖書」であり、そこに書かれている言葉を「御言葉」という。その聖書には、次のような御言葉がある。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ1:4、5)
他にも、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」(ローマ9:15)とあり、「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」(ヨハネ6:44)とあり、「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った」(使徒13:48)とある。これらの御言葉の「表層」だけを見るなら、誰が救われるかは神によって予定されていることになる。
そこで、こうした御言葉を体系化したのがカルバンであり、それは「予定説」と呼ばれている。そうなると、人間の自由意志はどうなるのかという疑問が生じるため、カルバンは、人間の自由意志は救いに関与しないとし、救いは完全に神の主権によるとした。しかし、一方で次のような御言葉もある。
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30:19)
他にも、「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(ヨシュア24:15、新共同訳)とあり、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)とあり、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)とある。これらの御言葉の「表層」だけを見ると、救いは人間の自由な意志での選択の応答によって成立することになる。
この立場は先の「予定説」がプロテスタント教会の主流となった後に、アルミニウスによって体系化されたことから、「アルミニウス主義」と呼ばれている。そこでは「予定説」を支持する御言葉については、神は全知ゆえ、誰が神を信じるのかをあらかじめ知っておられたため、その者を「選び」と呼ぶものだと解釈した。
このように、御言葉の「表層」だけを見ると整合性の欠如が生じる。その場合、「神の主権vs人間の自由」となるゆえ、どちらの「表層」を「正」とするかで異なる教理が生まれてしまう。かといって、どちらも聖書の記述を根拠とするため、どちらも「聖書的」であると主張できてしまう。
こうして、2つの体系は統合できないまま、二大陣営が並立し、対立してきた。この対立は、御言葉を支えている「霊的構造」に気付かず、御言葉の「表層」だけを読んでしまったことに原因がある。そこで次は、これらの御言葉の「表層」を支えている人間側の「霊的構造」を確認し、それを通して対立の解決を図りたい。
【対立の解決】
御言葉は神が人に語られている以上、人の側がどのような状態にあるのかが分からなければ、御言葉の神意を知ることはできない。前回の「序論」でも述べたが、例えば「んー、っぱ!」と書かれた言葉を読んだとき、それは意味不明でしかない。しかし、この言葉は、親が言葉を持たない状態にある赤ちゃんに対して語っていると分かれば、「んー、っぱ!」は「こっちを見て」と注意を向けさせる意味だと分かる。
同様に、神が語られる言葉を受け取る「人の状態」が分かって、初めて言葉の意味も正確につかめる。そこで本コラムは、神と人との関係を成り立たせている「人の状態」を人の「霊的構造」と呼んでいる。その概略は次の通りである。
◆ 人の「霊的構造」の概略
神は土地のちりで人の「体」を造り、そこにご自分の「いのちの息」を吹き込み、人を生きる者にされた。「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(創世記2:7)。「いのちの息」の「いのち」は「ハイイーム」[חַיִּים]で、これは複数形の単語で「三位一体の神」の「いのち」を指す。「息」は「ネシャーマー」[נְשָׁמָה]で、「魂」とも訳せる。つまり聖書はここで、神がご自分の「いのち」の部分を「魂」として貸し与え、人を生きる者とされたことを教えている。これが、人の「霊的構造」の概要である。

まさしく、人は神の中に生き、動き、神にあって存在しているのである。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17:28)。これが、神が人を造られた際の神と人との関係であり、人の「霊的構造」である。それは、神と人とが一体となって結び付いた状態であった。例えるなら、神が「ぶどうの木」であれば、人はその「枝」であった。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)
ところが聖書によると、「死をつかさどる者、つまり悪魔」(ヘブル2:14、新共同訳)がいた。この悪魔は蛇を使って人に罪を犯させ、「死」を持ち込んだのである。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12、新共同訳)
その結果、人の「体」は滅ぶしかない「死の体」となり、それは「有限性」の体ゆえに「永遠性」の神が見えなくなった。これは、神と分離したことを意味する。そうなると、「ぶどうの木」の「枝」が本体と分離して地に落ちればやがて枯れてしまうように、「精神」である人も滅んでしまうため、人は実質的には死んだ状態となっていた。「アダムにあってすべての人が死んでいる」(Ⅰコリント15:22)。これが人の現状の「霊的構造」である。
◆ 救いとは「死」から「いのち」に移されること
人が置かれているこの状態を踏まえると、救いが何を意味するのかが見えてくる。救いとは、「有限性」となった「死の体」に代わり、朽ちることのない「永遠性」の体を着せられることである。
この体を聖書は「霊の体」(Ⅰコリント15:44、新共同訳)と呼び、それを着せられることを「永遠のいのち」を持つという。すなわち、救いとは「死」から「いのち」に移されることである。それでイエスは、「信じている者は、永遠のいのちを持っていて、さばきに会うことがなく、死からいのちに移されています」(ヨハネ5:24、私訳)と宣言された。ならば、どのようにして人は救われるのか。イエスは宣言の続きで、次のように説明された。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。(ヨハネ5:25)
「死人」とは、「永遠のいのち」を持たない者である。神の子は、その「死人」に呼びかけるという。どのようにして呼びかけるのか。神の子キリストは、神が人に貸し与えた神の「いのち」、すなわち「魂」を介して、神との和解を呼びかける。その呼びかけに応答するなら「永遠のいのち」を持つようになり、生きる者になるのである。それが、「聞く者は生きるのです」の意味であり、こうして人は救われる。
◆ 救いの2つのステップ
救いの理解で大事な点は、神の子キリストの呼びかけは、人の外部からではなく、内部の「土台」から行われるということである。人の土台である「魂」は神の「いのち」であり、その「いのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)ことこそが、人の光となっているからである。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(ヨハネ1:4)。つまり、神からの呼びかけは「体」を介してではなく、神の「いのち」の「魂」を介して行われるため、神が直接、救いに必要な言葉を語られるということである。
そして、神からの呼びかけは、「体」を介さずに行われることから、肉の耳では聞こえない。それは心の声として、潜在意識に語られる。この呼びかけがなければ誰も救われないため、これを神の一方的なあわれみとして聖書は表現する。例えば、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」(ローマ9:15)や、「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」(ヨハネ6:44)のように。
まさしく人の救いは、人間の意識が及ばないところで進む以上、それは人間の側の意志ではなく、完全に神の主権による話となる。それ故、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ1:5)という、神の一方的な「予定」を語る言葉が成り立つのである。
さらには、その呼びかけを聞いても、人の側が応答しなければ救われないため、聖書には「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(ヨシュア24:15、新共同訳)とあり、また神は全ての人が応答してくれることを望んでおられることから、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)とある。
救いに関しては、このように2つのステップがある。一つ目は、神が直接人に呼びかけるステップであり、二つ目は、その呼びかけに人が応答するステップである。このことが分かれば、救いに関する御言葉は全く矛盾しなくなる。
◆ 救いの「自覚」へ
神が人に呼びかけ、人がそれに応答するという救いのステップは、人が意識できない潜在意識での出来事になる。これを「心に信じて義と認められ」(ローマ10:10)という。ところが、救われたなら「永遠のいのち」を持つようになるため、その者はキリストについての御言葉を聞くことで、イエス・キリストが信じられるようになる。イエスはこれを、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)と言われた。
すると人は、今度はイエス・キリストを信じますと「告白」できるようになり、その「告白」によって救われた自分を「自覚」できるようになる。これを「口で告白して救われるのです」(ローマ10:10)という。こうして「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:10)という流れが明らかになる。
つまり、人は救われても意識がないために、救われた自覚を持つにはキリストについての御言葉を聞き、それを信じるという選択が不可欠となる。そこで聖書には、信じれば救われるという教えの「表層」が多くある。例えば、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)のように。
このように、救済の御言葉の「表層」だけを見ると「神の主権vs人間の自由」となって矛盾に見えるが、その言葉の「表層」を受け取る側の人の「霊的構造」が分かれば、それは矛盾ではない。
その「霊的構造」は、神と分離した「死の体」であった。このままだと滅びるしかないゆえ、この場合の人の救いは、朽ちない「霊の体」を神から着せられることである。そのために神は「魂」を介して呼びかけてくださることが分かれば、加えてその呼びかけは人が意識できない潜在意識に対して行われると理解できれば、そして神の呼びかけに応答しなければ救われないという真理に気付けば、こうした一連の救いの御言葉は対立しなくなる。
従って、対立の原因は「霊的構造」を見落とし、御言葉の「表層」だけを読んだことにある。故に、対立の解決は、人の「霊的構造」を通して読み直すことに懸かっている。忘れてはいけないのは、キリストを信じている者は、人の中心(土台)である「魂」という種に、朽ちない「霊の体」が着せられているということである。
神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。(Ⅰコリント15:38、新共同訳)
この「体」については同じ章の中で、「霊の体が復活するのです」(Ⅰコリント15:44、新共同訳)と書かれていることから、それは朽ちない「霊の体」であることが分かる。
一見すると、この訳では、その「霊の体」は将来着せられる話として読めてしまう。あるいは、ここは復活のシステムを説明しているだけであって、いつ着せられるかについては語っていないとも読める。しかし、「体をお与えになります」と訳された原文は「現在形」であるため、「与えられています」となる。
つまり、キリストを信じている者はすでに「霊の体」を着せられていて、「永遠のいのち」を持っているのである。「救済論」の対立の先には、そのことが見えてくる。
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(Ⅰヨハネ5:13)
次回は、「終末論」の論争を見ていこう。(続く)
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