2026年1月28日21時37分

コヘレトの言葉(伝道者の書)を読む(20)言葉と愚かさ 臼田宣弘

コラムニスト : 臼田宣弘

今回は、10章11~17節を読みます。前々回から、フョードル・ドストエフスキーの小説『白痴』との併せ読みをしています。今回は、亀山郁夫訳の文庫版の『白痴(2)』、つまりこの小説の第2部から、その6~9章とコヘレトの言葉を併せ読みたいと思います。

コヘレトの言葉10章11~20節を一語で言えば、「言葉と愚かさ」です。そして、『白痴』第2部6~9章も同じく、「言葉と愚かさ」が織りなされている場面です。前回までは、聖書本文を一通り解説した後に、小説との併せ読みをしていましたが、今回は冒頭からしていくことにします。

一人の人間の内にある二面性

11 もし呪文を唱える前に蛇がかみつけば、蛇使いに益はない。12 知恵ある者の口から出る言葉には恵みがあり、愚かな者の唇は身を滅ぼす。13 その口から出る言葉は愚かさで始まり、悪しき無知で終わる。愚かな者は多くを語るが、やがて何が起こるかは誰も知らない。14 その後どうなるかを、誰が彼に告げることができようか。15 愚かな者は労苦したところで疲れるだけだ。町に行く道さえも知らない。

原語を見ますと、「蛇使い」という語はありません。11節後半に出てくるのは、「舌の主人」という言葉です。直訳すれば「舌の持ち主」です。呪文で制御されない蛇がかみつくという情景は、「制御されていない危険」を表しています。

その後に、舌の主人という語が続くことから、11節に出てくる「蛇」は「制御されていない言葉」と捉えることができます。舌の主人がその舌を制御できないならば、弁が立ったとしてもそれは益とはなりません。言葉は毒を帯び、蛇のように人々の間をうねり回ることになるのです。

『白痴』第2部6~9章は、レーベジェフという人物の家での夜会が舞台で、ここには言葉を制御できない人たちが次々と登場します。そこでは、毒を持った言葉がうねり回っているのです。ドストエフスキーはこの場面を、「混乱」「雑音」「無秩序」として描いているように読めます。そうなると、当然他者を傷つける言葉も飛び交います。私にとっては、参加者の姿に自分を見るようで、恥ずかしくなってしまう場面でもあります。

その場にいるのが、社交的な駆け引きの言葉を操ることのできない、主人公のムイシキン公爵です。彼は当初、沈黙して皆の言葉を聞いています。ところが、そこにかつての恩人パヴリーシチェフの「息子とされる」プルドフスキーが現れます。ムイシキン公爵は病気療養のためスイスに滞在していたとき、パヴリーシチェフから経済的な援助を受けていました。プルドフスキーはムイシキン公爵に対し、父の援助に対する道義的な償いを求めてくるのです。

話は少し変わりますが、私は聖書の中で2つのタイプの人間が語られるとき、一方のみに自分自身を重ねることをしないようにしています。新約聖書では、ファリサイ派と徴税人や娼婦(しょうふ)などの罪人の対比がしばしば語られています。自分自身はどちらなのかと問うた場合、どちらもあり得ると考えることにしているのです。一人の人間が2つの側面を持っていることを、聖書は語っていると考えているからです。

ですから、12節を読む場合、口から恵みある言葉が出る知恵ある者と、唇によって身を滅ぼす愚かな者は、2つのタイプの人間がいるというよりは、一人の人間の中に両者が存在すると捉えます。

『白痴』において、当初は夜会の参加者たちの「制御されていない言葉」を沈黙のうちに聞いていたムイシキン公爵が、8章の最後部において、突如「大声を張り上げ、早口でもどかしげに話し」「全員を言い負かし、相手の声を同じ声で圧倒しようと躍起」になります。そして、彼のその言葉が、同席している人たちを傷つけることになるのです。12節で言われている2つのタイプの人間の姿が、ムイシキン公爵の内に現れているということでしょう。

ドストエフスキーはこの小説で、ムイシキン公爵という善良で無防備な人間が、レーベジェフ家の夜会のような利害と虚栄に満ちた場に置かれたとき、その善意がどのように受け取られ、どのような結果を生むのかを問いかけているのです。恵みの言葉を語る知恵ある者が、知恵ある者のままでいられるのか、という問いでもあります。

読者の多くは、その問いにノーと答えるでしょう。しかし、そのノーは単なる道徳的失敗を意味するのではありません。ムイシキン公爵の善意が、思いがけずその場にいる人を傷つけ、混乱を生み、自身にとっても打撃となってしまうのです。コヘレトの言葉9章11節以下は、「ペガ / פֶגַע」(人の知恵や徳とは無関係に、偶発的に降りかかる打撃)がテーマになっています。ムイシキン公爵の善意が破綻するその構造こそが、コヘレトが語るペガに他ならないでしょう。

言葉の制御

16 王が若者で、高官たちが朝から食事をする国よ、あなたに災いあれ。17 王が高貴な生まれで、高官たちがふさわしい時に、飲むためにではなく、力を得るために食事をする国よ、あなたは幸いだ。

16~17節は、語られている角度が少し変わりますが、内容はやはり「言葉と愚かさ」です。ここでは、若く未熟な王と高貴な王それぞれの下での支配が語られています。いつ食事をするかの対比によって語られていますが、これは言葉がうねり回っているか、制御されているかの対比でもあります。朝からの食事とは宴会を意味し、そこでは愚かな言葉が飛び交っていたことでしょう。

レーベジェフ家の夜会は、まさに朝からの食事です。参加者が勝手なことをしゃべり合い、そこには制御が存在していないため、ムイシキン公爵も愚かな言葉を語り出します。言葉を制御する大切さを教えられる場面です。

新約聖書にも、「同じ口から、賛美と呪いが出て来る」(ヤコブ3章10節)とあります。言葉の大切さは、牧師として重々認識していますが、それでもいつも言葉で失敗してしまいます。だからこそ、十字架を見上げつつ歩んでいかねばならないと思わされます。

今回は、聖書のテキストからも、『白痴』からも、いろいろなことを考えさせられました。(続く)

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臼田宣弘

臼田宣弘

(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。