多くの専門家がさまざまな議論を重ねてきた「一神教と多神教の違い」について、いまさら何をお伝えすべきかとも思いましたが、的外れなコメントが多いので、私なりの考えをまとめたいと思います。
立場の違いを埋めるのは難しい
キリスト教が日本になじまない理由として、キリスト教が一神教であるため、日本の多神教の世界に合わないという意見をよく耳にします。
聖書信仰を持たない多くの日本人がこのように考えるのは、聖書の伝える一神教の意味が分かりにくいためなのでしょう。学ぶ機会が少ない(キリスト教会が正しく発信していない)ので、やむを得ないかもしれません。
また、クリスチャンでも同じように考える人がいますが、おそらく日本の多神教の実態を理解していないことによると思います。特にキリスト教会には、日本の多神教的な考えを偶像礼拝と混同する傾向があり、長年教会に集う人ほどその傾向が強いかもしれません。
両者の溝は時間とともに深まっていますので、立場の違いを埋めるのは大変難しく、日本宣教拡大を阻む大きな要因になっていると思います。私たちは、両者の違いを軽率に扱わないように注意したいものです。
「神は唯一である」を理解できるのか
聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。(申命記6章4節)
この申命記の言葉は、他の箇所でも何度も取り上げられ、聖書が一貫して伝える内容です。ところが、これを読む日本人は、そもそも日本語の「神」や「唯一」の意味が、聖書の伝えるものとずれているため、誤った解釈に陥る危険があります。
「古事記」によれば、天地創造に関わる造化三神(天之御中主神[あめのみなかぬしのかみ]、高御産巣日神[たかみむすひのかみ]、神産巣日神[かみむすひのかみ])は、聖書の示す三位一体の神様と似ています。ところが、その後に現れた神は創造主ではなく、明らかに被造物です。
天皇やそれに仕える人、あるいは有名な戦国武将でさえ神として神社に祭られているのです。これらは、立派な功績を残した人に「神」の称号を付けたに過ぎませんから、聖書の伝える神様(天地の創造主)とは全く意味が異なっています。
また「唯一」についても、聖書が伝える神様は、父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊による三位一体の神様ですから、誤った解釈を生む要因になっています(参考・第239回:三柱鳥居に心を寄せて)。クリスチャンであっても、特に聖霊に対する理解が不足すると、「三位一体にして唯一の神様」を理解することが難しく、日本社会に正しい発信ができないのかもしれません。
昔、教会の組織図の最上位にキリストの人物絵を描いたものを見たことがありましたが、「唯一」の言葉から、人の組織や共同体を治める有能なリーダーをイメージするなら、聖書の言葉とは異なる理解を生んでしまいます。
本来「偶像礼拝」という概念がない
神道には、特定の教祖や聖典がなく、自然物や神々(やおよろずの神々)そのものを畏敬し、神様が宿る場所(依り代)として鏡や勾玉(まがたま)、鳥居などを大切にしますが、これらは神の姿ではなく、神を招き、感謝し、清めるための「シンボル」や「目印」に過ぎません。
また、偶像礼拝が多いとされる仏教ですが、本来ブッダの教え自体を指していて、その中に偶像礼拝は存在すらありませんでした。後の時代に、教えの象徴として作られた仏像が、徐々に礼拝の対象になってきたようです。
現代社会に見られる「仏」というのは、ブッダを始めとして悟りを開いた人を指していますので、聖書の伝える神様とは大きく異なっています。唯一、「仏」の根源とされる「大日」が聖書の伝える神様に似ていますが、本来の仏教に存在していたわけではなく、平安時代に日本で確立した教えの象徴に過ぎません。
日本文化に寄り添う宣教
以上、聖書の伝える一神教と日本の多神教を簡単に解析しましたが、私たちが通常使っている「一神教」や「多神教」の言葉だけでは表現できない深い意味があることが分かります。また、偶像礼拝についても、そもそも日本古来の文化にあったわけではなく、後の時代に徐々に生まれたものであり、現代の日本人に直接当てはまらない部分が多いように思います。
私たち日本人が日頃から心を注ぎ出し、感謝し、願いをささげる祈りは、いったいどこに向けられているのか、日本文化に寄り添いながら、今後とも考えていきたいと思います。
◇