不条理な世界の出来事とその受け止め方
9章11節から「ペガ / פֶגַע」(人の知恵や徳とは無関係に、偶発的に降りかかる打撃)についてお伝えしてきました。ペガは、コヘレトの言葉全体が伝える「不条理」という世界の在り方が、「ある時」(ヘブライ語で「エート / עֵת」)に、一つの出来事として立ち現れる瞬間といえるかもしれません。
今回は、10章1~10節を読みます。ここは、この後の11~20節を含め、文章形態としては箴言集ですが、引き続き不条理とペガを中心に叙述が進められています。
1 死んだ蠅(はえ)は香料職人の油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは知恵や栄光よりも高くつく。
1節の前半は、新共同訳では「死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ、臭くする」と訳されていました。「香油職人の油」ですから香油でしょう。ですから前半は、1匹の死んだ蠅が、香料職人が丹精込めて作った香油に偶然入ってしまい、その香油を台無しにしてしまうということです。今日の事例で考えてみると、例えば、調理師が露店で作っていたスープに蠅が入ってしまうと、どんなに丹精込めて作ったとしても、そのスープは廃棄にしなければならないということです。
後半は、1匹の死んだ蠅のような、外部(時に内部)から来るほんのわずかな愚かさが、人がそれまで積み上げてきた知恵や栄光よりも重く作用し、それらを台無しにしてしまうことを伝えています。これは偶発的に降りかかる打撃であり、すなわちペガ的な出来事でしょう。
2 知恵ある者の心は右に、愚かな者の心は左に。3 愚かな者は道行くときも思慮に欠け、誰にでも自分が愚かな者だと言い触らす。
聖書においてはしばしば、「右」は救済・祝福を、「左」はその逆を意味します。マタイ福音書25章23~46節で、右側にいる人たちが祝福され、左側にいる人たちが呪われているのは、その代表例です。1節を受け、「香油を腐らせないすべ」を知っている者の心が右、その逆の者の心が左ということでしょう。知恵ある者の心は、愚かさに付け入る隙を与えないということです。
3節は、思慮を欠いた歩みは、やがて自らを評価の対象としてさらしてしまう、という冷静な観察だと思います。ただコヘレトは、ペガは避けられないと語っているので、その観点で読むならば、「自らを評価の対象としてしまうことは避けられない」ということになるでしょうか。
4 支配者があなたに憤っても、自分の場所を離れてはならない。冷静になれば、大きな罪には問われない。5 太陽の下に不幸があるのを私は見た。それは権力ある者が引き起こす過ちで、6 愚かな者が甚だしく高められ、富める者が低い地位に座している。7 私は、奴隷が馬に乗り、高官が奴隷のように地を歩くのを見た。
支配者の怒りはしばしば不条理を招き、地位のない者が馬に乗り、地位のある者が地を歩かされます。コヘレトは、「そのような不条理があっても、あなたは、あなたの感情に巻き込まれることはせず、自分の位置を離れないでいるしかない」と言っているのです。
8 穴を掘る者はそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。9 石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木でけがをする。
ここでは、生活する上で行う4つの行為が語られていますが、それぞれの行為、結果、意味することを表にしてみます。
| 人間の行為 | 起こる結果 | それが意味すること |
|---|---|---|
| 穴を掘る | 自分がその穴に落ちる | 計画的・合理的に見える行為であっても、偶発的に自分自身を破滅に導くことがある。 |
| 石垣を崩す | 蛇にかまれる | 石垣という障害や境界を取り除こうとする行為が、思いがけない危険を呼び込む。 |
| 石を切り出す | 石で傷つく | 生産的・建設的な労働そのものが、身体的・存在的な損傷を伴う。 |
| 木を割る | 木でけがをする | 燃料の確保や住居の維持といった生活を支えるための行為が、常に危険と隣り合わせである。 |
穴を掘り、石垣を崩し、石を切り出し、木を割るとは、人が生きる上で行う営みを示すものですが、それにもかかわらず、その行為のただ中で、人は偶発的な事故や災い、すなわちペガに遭遇します。ここには、正しく生きれば報われるという図式は存在しません。コヘレトは、行為と結果の間にある、この不条理を直視しています。
10 斧(おの)がなまったとき、その刃を研いでおかなければ力が要る。知恵には益があり、成功をもたらす。
斧がなまっていると、木を切るのに力が要りますから、スムーズに木を切るためには斧の刃を研いでおかなければなりません。それと同じように、9節までに示されてきた、ペガが起こる不条理な世界においても、人間の側が知恵を研いでおく必要があるということでしょう。
ただ、コヘレトがこの書で言っているのは、「不条理な世界や出来事自体を変える」ということではなく、不条理を前提とした世界の中で、余計な力を使わずに生きるために知恵を用いることにあります。コヘレトは、この書の第2部(4章1節~9章10節)において、不条理に対しては「日常の小さな喜びを享受する」ことを強調していましたが、9章11節以下のこの第3部では、「愚か者や偶発的な災いに巻き込まれないよう注意深く知恵を働かせ、現実的に対処する」ことを説いているといえます。
ドストエフスキーの『白痴』と併せ読む(2)
前回に続き、フョードル・ドストエフスキーの『白痴』と併せ読みたいと思います。今回は、亀山郁夫訳の文庫版の『白痴(2)』、つまりこの小説の第2部のうちの1~4章と併せ読みたいと思います。
前回は、ペテルブルクのナスターシャの家での集まりで、ムイシキン公爵、ロゴージン、ガーニャの3人の男性が、ナスターシャを巡る複雑な心理的やりとりを繰り広げた、第1部の最後の場面を取り上げました。第1部は、ロゴージンがナスターシャへの情熱を強く示す場面で終わります。
第2部は、ムイシキン公爵が遺産相続の件でモスクワに向かう場面から始まります。一方で、ロゴージンもまた、モスクワの邸宅に戻ります。第2部の3章には、ムイシキン公爵がロゴージンの邸宅を探し出し、ロゴージンがムイシキン公爵を迎え入れる様子が描かれています。そこで2人は互いに親しい言葉で会話を始めます。実は、第1部の冒頭は、ペテルブルク行きの汽車の中で、ムイシキン公爵とロゴージンが偶然に出会う場面で始まっており、2人はそこで既に知り合っていた仲だったのです。
背景にある「去勢派」の存在
2人が会話を進める中、ロゴージンが「この家には、ずっと去勢派の連中が住んでいたのさ」と言い出します。「去勢派」というのは、ロシア語ではスコプツィと言い、18~19世紀のロシアに実在した、キリスト教の異端とされるセクト(分派)です(N・M・ニコリスキー著『ロシア教会史』329~332ページ参照)。「性欲は原罪の根であり、肉体(特に性)を除去することで霊的純粋さと救済に至る」というのが彼らの教えの核心です。
男女共に去勢や乳房の切除を行っており、愛や関係性の受容ではなく、肉体の否定・除去を通して救済に入ろうとしていたのです。ドストエフスキーは、去勢派を「歪んだ救済思想・狂信の象徴」として捉えていました。ロゴージンの家に去勢派の人たちが住んでいたという描写は、彼の「愛の在り方の歪み」と「自己否定的な情念」を象徴しています。
去勢派の存在は、この小説の強い背景となっています(亀山郁夫著『ドストエフスキー 謎とちから』150~152ページ参照)。そして主人公のムイシキン公爵は、去勢派とは全く反対に位置する人物として描かれています。
『白痴』における去勢派やロゴージンは、コヘレト的に言うならば、世界の不条理を極端な「力」と「意味付け」で解決しようとした愚かな存在として伝えられています。10章1節の「香油を腐らせる死んだ蠅」とは、まさに去勢派であり、ロゴージンなのです。
それに対してムイシキン公爵は、「世界を変えようとしない」「欲望を断ち切ろうともしない」のであり、「力を使わずに生きる知恵」を体現している人物です。コヘレトと併せ読むならば、10章8~9節に記される「行為を起こす人」ではなく、「行為を起こさない人」として描かれています。
ムイシキン公爵は、てんかんという病を持ち、弱く無力な人物として終始伝えられています。しかし、その弱さは「コヘレトが薦めている、現実的に対処する知恵」を破壊する「死んだ蠅」のような愚かさではなく、過剰な力を使わないための位置取りをするものであり、コヘレトが説く「最小限の知恵」といえます。彼は10章10節で伝えられている「斧を研ぐ人」でもあるのです。
ハンス・ホルバインの「墓の中の死せるキリスト」
第2部の4章に進みますと、ロゴージンの邸宅に、ハンス・ホルバインという画家による「墓の中に死せるキリスト」という絵画の模写が飾られていることが描写されています。この絵もまた、この小説を象徴する重要なモチーフの一つです。
ホルバインのこの絵は、伝統的なキリスト像とは正反対です。体は横たえられ、目は半開きで、口はわずかに開き、腐敗の兆候すら感じさせる、復活の気配が一切ないキリストなのです。ロゴージンはこの絵に執着していますが、それは彼が「復活なき受難」の世界を生きている人物であることを象徴しています。
一方、ムイシキン公爵はこの絵を見せられて、「この絵は、ある人の信仰を失わせるかもしれない」と言います。ある人とは、ムイシキン公爵を含む不特定の人たちです。それはコヘレト的に言えば、ペガ的な出来事です。しかし、ムイシキン公爵はここで信仰を失いません。しかしだからといって、彼は強くなるわけではないのです。彼は弱いまま、不条理な世界を生きていくのです。
そしてこの絵は、信仰の強さを示すためのものではなく、信仰が失われ得る地点に人を立たせるための問いとして、この小説に置かれているのです。それは、不条理な世界でペガ的な出来事に遭遇したとき、それでもなおそれを受容するよう勧めるコヘレトの言葉と響き合っているように思わされます。(続く)
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