
「ユダヤ人の歴史」という書名の著作は、いくつも存在します。私の書架にも2冊あり、F・ヨセフスの『ユダヤ人の歴史』は、イエスの時代を聖書外で読める希少な書であり、イラン・ハレヴィの『ユダヤ人の歴史』は、古代イスラエルの起源から現代に至るまで、ユダヤ世界の全体像を立体的に描き出している良書です。
しかし、これらは全て海外の著者の手によるものです。その中で、鶴見太郎氏(東京大学大学院総合文化研究科准教授)による本書『ユダヤ人の歴史―古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』は、日本人によって著された最初の「ユダヤ人の歴史」です。
本書は、古代から紀元70年のエルサレム神殿崩壊まで存続したユダヤ教国家を、聖書学に基づき忠実に描きつつ、その後の離散の歴史を詳細にひもといています。
著者は第2章の冒頭において、古代末期・中世の離散したユダヤ人社会を執筆するのに先立ち、イソギンチャクとクマノミという魚の関係を紹介しています。クマノミは、イソギンチャクの排出する毒に対し耐性があるので、その中に入り込めば外敵から身を守ることができます。一方、イソギンチャクの側も、クマノミに新鮮な海水を送ってもらうことで、新陳代謝を高めることができます。結果的に、相互に助け合うことができているのです。著者はこの関係を、離散したユダヤ人(クマノミ)と、離散先の各地域(イソギンチャク)として描き、本書を進めていきます。
古代末期・中世の地中海地方におけるユダヤ人は、地中海周辺の都市に広く散在し、「ディアスポラ」と呼ばれる散住の歴史的状況を形成していきます。一方、アラブ人の間では、7世紀にイスラム教が興り、ユダヤ人はイスラム教とも折り合いをつけていかねばならなくなります。
10世紀には、ユダヤ人はイベリア半島に多く住むようになり、ここではキリスト教徒、イスラム教徒と共存することになります。一方で、ドイツを中心とするキリスト教世界では、アウグスティヌスによる神学が浸透し、彼の「終末に際して、ユダヤ人は遂にイエスを認める」という考え方が、ユダヤ人たちに影響を与えていきます。
著者はここで、時代を先取りして以下のように書いています。
このユダヤ人に対する微妙な立場がキリスト教世界のなかでどのように展開していくかは、宗派や時代、状況によって多様だ。一面ではユダヤ人を擁護する方向に発展することもあった。とりわけ20世紀半ば以降のアメリカで拡大した福音派(エヴァンジェリカル)の場合がそうだ。新約聖書の「ローマ信徒への手紙」11章を根拠とするその教義では、この終末の前段として、「イスラエルの再興」が見られる。すなわち、ユダヤ人がパレスチナに結集し国を建てることが、「神の国」の実現のための前提になるというのだ。
これが、「キリスト教シオニズム」と呼ばれる思想の核心であり、福音派が政治的に一定の影響力を持つ現代アメリカが親イスラエル的な政策に傾く要因の一つとなっている。それは、いわゆるイスラエル・ロビーの影響力よりも大きいといわれる。(97~98ページ)
本書はここにおいて、先に書評を書かせていただいた加藤喜之氏(立教大学文学部キリスト教学科教授)による『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』につながっていくのです。
本書が優れているのは、単に歴史的叙述を積み重ねるのではなく、「ユダヤ人が世界の中でどのように位置付けられ、いかに他者と共存し、あるいは緊張関係に置かれてきたか」という構図を、可視化させている点にあります。古代末期・中世を扱う第2章から、早くも現代の米国の宗教・政治状況へ接続し得る射程を持っています。
それは、ユダヤ人の歴史を「ユダヤ人社会内部の歴史」として語るのではなく、常に「他者」との相互作用の中に位置付ける著者独自の視点によるものです。イソギンチャクとクマノミの比喩は、その象徴的表現であり、異なる文化・宗教・政治体がいかに共生するかという視点で、歴史を描いているのです。
ユダヤ人はその長い歴史の中で、中世においても迫害を受けました。15世紀になると、スペインによってユダヤ人の多くがキリスト教に改宗しました。自由な改宗ではなかったでしょう。異端審問所が開設され、改宗しない者は、罰を受けたり国外追放になったりしました。
本書はその後、第3章(近世)、第4章(近代)、第5章(現代)へと進みます。その叙述は、ユダヤ人社会がオランダ、オスマン帝国、ポーランド、ロシアへと広く拡散していく過程を辿るものでもあります。近世のユダヤ人は、地域によっては周囲の社会と比較的安定した関係を保っていました。しかし、近代の19世紀になると、イソギンチャクとクマノミの共生関係が崩れ始めたように読めます。
19世紀末にはロシア帝国や東欧で、非ユダヤ人住民がユダヤ人共同体を襲撃するポグロムが頻発しました。この暴力と不安定化を契機に、パレスチナにユダヤ人の生活拠点を築こうとするシオニズム運動が本格的に展開していきます。近代において、ユダヤ人と周囲の社会との間に、深い亀裂が生じ始めたことが鮮明に伝わってきます。
このポグロムの歴史が、欧州社会で反ユダヤ人暴力を日常化させ、ナチスのユダヤ人絶滅政策が受け入れられる社会的空気をつくっていくことになります。そして、人類史上最悪の犯罪といわれるホロコーストが実行されることになったのです。
現代について書かれた第5章は、その第1部で、ソ連におけるユダヤ人の歩みが記されています。1928年に極東のハバロフスク近郊(と言ってもシベリア鉄道で3時間弱かかりますが)のビロビジャンを中心に、ユダヤ人自治州がつくられます。このビロビジャンには、私も2007年8月に訪れたことがあります。
第2部では、パレスチナにおけるイスラエル建国が扱われています。また、本書の最後部である第3部では、現代の米国におけるユダヤ人や多民族の動向が論じられています。
本書を読むと、紀元70年後のユダヤ人が、世界諸国の中でどのように生き抜いてきたかが読み取れます。島国で長い間、歴史を刻んできた日本人とは、経験が大きく異なるといえます。米国においてユダヤ人は明確なマイノリティーです。ドナルド・トランプ政権下で米国が親イスラエル政策に傾いているのは、しばしば考えられているようなイスラエル・ロビーの力よりも、むしろ福音派の終末論的世界観の影響が大きいということでしょう。
そういった意味で、前述の『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』は、本書と併せ読むことがふさわしいと思います。私は、分析の立場こそ異なるものの、「トランプ政権の親イスラエル路線を支える最大の勢力は、イスラエル・ロビーではなく、米国の福音派の終末論的信念と政治動員力である」という点で、鶴見、加藤両氏の方向性は一致していると思いました。皆さんは、どう読み取られるでしょうか。
■ 鶴見太郎著『ユダヤ人の歴史―古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(中央公論新社 / 中公新書、2025年1月)
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