
世界中で今日も争いは続いている。平和など、地球全体を見渡したら歴史の中には存在せず、いつもどこかで争いが起こっている。そのような世界においても、わずかにでも日々の生活で「平和を実現する人」になれるだろうか。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
「平和を実現する人々」は、平和がどれほどに難しいか知っているのではなかろうか。己の罪性をよく知っているのではあるまいか。争いや殺りくをわがこととして、己の深い罪性に向き合い、血を流すほどに戦うことの大切さが、聖書にも書いてある。
あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。(へブル12:4)
「自分は平和の側にいる」と思っていたら、いつの間にか、正義という観念のとりことなってしまい、自分が正しいかのような錯覚に陥り、立場が逆転していることもあり得る。
今も争いを起こしているのは、誰かを追い詰めているのは、私たちと違う悪人ではなく、私たちと同じ人間である。私たちは神様の救済を必要とする、愚かで、あわれな罪びとでしかない。だからこそ日々、神様と己の罪と向き合いながら、私たちは歩んでいる。
正しく生きようと思うほどに、真面目に生きようと思うほどに、ばかを見ることも多いこの世界である。詩編にも、信仰者が敵にあざ笑われる、苦しみの叫びが刻まれている。
ずるがしこく、権力にうまく立ち回り、存在感を増す人たちがあふれている。そんな中で、実直に、地道に、時に笑われようと誠実に生きることは、難しいことだ。
そんな生き方を貫いた姿が、イエス様の御跡にも、迫害の中を歩んだ使徒の道のりにも刻まれている。・・・共に歩める友もわずかかもしれない。分断の大きな時代にあり、友のいない信仰者もいるかもしれない。しかし、同じ空の下には、同じ苦しみを共にしている世界中の信仰の兄姉たちがいる。
私もわずかでも「平和を実現する人」になりたい。神様に対して誠実に、夫と猫たちと暮らす小さな家を守り、近くに住んでいる義父母に対して、教会で与えられる奉仕に対して「平和を実現」してゆきたい。
心の傷の深さから、人を憎いと思う心も消えず、投げやりな心もなかなかなくならない者であった。そんな私に、神様は大きな恵みを下さった。足の状態が良くなり、毎日ヨガができるようになった。
固くなった体でも、ポーズを真剣に取ると、神様からの愛のように、体に喜びが走る。霊と肉と魂が一つになるのを感じられるまで、目を閉じ、体の呼吸に集中する。この肉体は、私たちの幸せのために創造されたことを感じる。決して傷つけ合うためのものであってはならないのだ。
戦争からは目をそらしたい・・・。それはひょっとしたら、自分の罪性が見えるからなのかもしれない。怒りや憎しみは、世界中で、そして私たちの心の中で燃え盛っている。神様、どうかこの罪深いわれわれをあわれんでください。イエス様の十字架が、今も天に掲げられているようである。
(絵・文 星野ひかり)
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