2025年8月27日19時07分

コヘレトの言葉(伝道者の書)を読む(10)抗黙示思想 臼田宣弘

コラムニスト : 臼田宣弘

今回は、6章1節~10節aを読みます。ここから、コヘレトの言葉で特徴的な「抗黙示思想」がより鮮明に現れ始め、その傾向は8章まで続きます。そこでまず、聖書本文に入る前に、黙示思想とは何か、コヘレトはどういった黙示思想に抗しているのか、などについて、私の考えをお伝えしておきます。

コヘレトが抗した黙示思想

黙示思想とは、神が歴史に介入し、終末に義人を救い、悪を裁くという思想です。新約聖書のヨハネの黙示録は、その代表的な書です。これは、ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代に、幻を通して神が啓示された内容を、ヨハネが見て記したものです。そこには、キリスト教徒の救いと、迫害者への裁きが象徴的に描かれています。

つまり、迫害などがある困難な時代に黙示思想が登場しているのです。コヘレトの時代はどうだったのでしょうか。この時代は、紀元前2世紀のイスラエルや、ヨハネの黙示録の時代の初代キリスト教会のように、信仰的迫害や生命が脅かされる状況はなかったと思います。しかし、コヘレトは「空しい・儚(はかな)い」を意味する「ヘベル(הֶבֶל)」という言葉を繰り返しています。これは、コヘレトだけでなく、イスラエル社会やディアスポラ(離散=故郷を離れて海外に住む人たち)のユダヤ人社会において、新興のヘレニズム思想や伝統的なヘブライズム思想に対して、不信や違和感があったことの表れだと思います。

そのようなコヘレトの時代の紀元前3世紀に、「寝ずの番人の書」という黙示思想の書が出回るようになります。これは、後に「エチオピアエノク書」としてまとめられる108章からなる文書のうちの1~36章です。なお、6~11章については、紀元前4世紀末の成立とする見解もあります(上村静「後1世紀のパレスチナの空気」7ページ)。その10章を見ると、神は終末時に、ラファエル、ガブリエル、ミカエルの3人の天使に対して、堕天使のアザゼルとシェミハザをつないでおくように命令します(『聖書外典偽典(4)旧約偽典Ⅱ』179~180ページ)。

アザゼルとシェミハザは、ヘレニズムによるイスラエルの同化を象徴しています。終末における彼らに対する神の裁きとは、イスラエルの同化に対峙(たいじ)し、それを凌駕(りょうが)し、イスラエルに勝利を与えることです。こうした内容が記されているこの書は、黙示思想の書であるといえましょう。

さらに22章には、死者が待機する部屋などが伝えられており(同書191~193ページ)、これは輪廻(りんね)転生の思想のあるギリシャのオルフェウス教がもとになっているとされています(T・F・グラッソン著『ユダヤ終末論におけるギリシアの影響』27~28ページ)。それが、ヘブライズムの終末思想において再構成されたというのです。コヘレトの言葉では、特に6~8章において、そういった終末思想に対して抗した内容が伝えられています。

ここで、第1回で触れた、コヘレトの言葉の成立が紀元2世紀であったとする説について述べておきます。この説は、8章がダニエル書を前提とした内容になっているとして、「コヘレトの言葉は、ダニエル書が成立した紀元前160年ごろより後に書かれた、ダニエル書に抗した書である」というものでした。

私は、「コヘレトの言葉は黙示思想に抗している」とすることには賛同します。しかし、その黙示思想とは、紀元前2世紀のダニエル書に記されたものではなく、紀元前3世紀までに成立した「寝ずの番人の書」のものだと考えます。詳しくは、8章について執筆する際にお伝えしますが、仮にコヘレトがダニエル書を知っていたとしても、それはダニエル書の古い時代の資料を知っていたのであり、コヘレトの言葉が書かれた時期を、ダニエル書が成立した紀元前160年以後に設定する必要はないと考えています。

では、聖書本文を読んでみましょう。

今この時に神とつながる

1 太陽の下、私はある災いを見た。それは人間に重くのしかかる。2 神が富と宝と栄誉を与えて、望むものは何一つ欠けることのない人がいた。だが、神はそれを享受する力をその人に与えず、他の人がそれを享受することになった。これも空であり、悪しき病である。

ここで挙げられている例は、歴史的に特定できる出来事ではなく、黙示思想を想定した象徴的なものでしょう。しかし、前回お伝えした、プトレマイオス2世が重商主義の成功により多くの富を得たものの、エジプトの川岸で貧しくとも楽しく食事をしている民衆をうらやんだ出来事に、似た話だと思います。

プトレマイオス2世は、富と宝と栄誉を得ましたが、それを享受して楽しむことはできませんでした。むしろ、仲間同士で食事を楽しみ、喜びを享受していたのは、エジプトの民衆でした。この民衆こそが、反黙示的に生きる「今を楽しむ人たち」なのです。貧しくとも、終末の世界に期待するのではなく、今の生活の中に喜びを見いだし、それを享受することこそが、コヘレトが奨励する反黙示的な生き方なのです。

ただし、コヘレトは今この時に神とつながることを説いています。それが、2章24~25節、3章12~13節、5章17~18節の「食べて飲む幸せを、今この時に神から頂く」という、一連の賛歌です。

神から与えられた命を生きる

3 人が百人の子どもを得て、長い年月を生きたとする。人生の歳月は豊かであったのに、その幸せに心は満たされず、また埋葬もされなかった。ならば、死産の子のほうが幸いだ、と私は言おう。4 確かに、その子は空しく生まれ、闇を歩み、その名は闇に覆われる。5 太陽を見ることも知ることもないが、この子のほうが彼よりも安らかである。

6 たとえ千年を二度生きても、人は幸せを見ない。すべての者は一つの場所に行くのだから。7 人の労苦はすべて口のためである。だが、それだけでは魂は満たされない。8 愚かな者にまさる益が知恵ある者にあるのか。人生の歩み方を知る苦しむ人に、何の益があるか。9 目に見えるほうが、欲望が行き過ぎるよりもよい。これもまた空であり、風を追うようなことである。10a すでに存在するものは名前で呼ばれる。

「百人の子どもを得た」「長い年月を生きた」「人生の歳月は豊かであった」という人は、まさに神から富と宝と栄誉を得た人だといえます。しかし、この人の心は幸せで満たされることはありませんでした。この人は、自分の人生に与えられた豊かさを享受することができなかったのです。それは、現世においてどんなに恵まれていても、それに飽き足らず、来世にさらなる幸福を求める思いがあったからかもしれません。

貨幣経済が発展し、際限のない富を得られるようになったヘレニズム時代には、そのようなこともあり得たのでしょう。コヘレトは、未来に依存するのではなく、今この時に神が与えてくださるプレゼントを享受することこそが、人生の意味であると説いているのです。

けれども、「ならば、死産の子のほうが幸いだ、と私は言おう」という言葉には、ドキッとさせられます。しかし、この言葉は「(親子共々に)死産は幸せだ」という意味ではなく、母の胎の中で人生を全うした子も、長寿で人生を全うした人と同じ価値があるということです。そして、その子はたとえ闇に葬られたとしても、名前が付けられているのです(10節)。あまりにも短い命だとしても、「この世界において、神から与えられたその時を生きたということに価値がある」ということが説かれているのだと思います。

コヘレトにとっては、この世界において、今という時を、永遠なる神とつながって生きることこそが大切なのです。それは、「儚い(ヘベル / הֶבֶל)」ことなのではなく、「良い(トーブ / טוֹב)」ことなのです。次回は、このトーブを中心にして読んでいきたいと思います。(続く)

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臼田宣弘

臼田宣弘

(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。