2025年6月23日19時59分

21世紀の神学(29)プロテスタント教会側から見る「とりなし手」としての聖母マリア 山崎純二

コラムニスト : 山崎純二

ローマ教皇フランシスコの死去に伴い、ロバート・フランシス・プレボスト枢機卿が新教皇レオ14世として選出されましたが、彼は最初のメッセージとして、キリスト教教義の核心部分である、キリストの十字架、復活、平和、神の愛を全世界のメディアの前で宣言しました。そして、このメッセージの結びとして、彼は聖母マリアについても、以下のように言及しました。

今日はポンペイの聖母への嘆願の日です。わたしたちの母マリアは、いつもわたしたちと歩まれ、そばにおられ、その取り成しと愛をもってわたしたちを助けたいとお望みです。ここで皆さんと一緒に祈りたいと思います。この新しい使命のために、全教会のために、世界の平和のために祈りましょう。そして、この特別な恵みをわたしたちの母マリアに願いましょう。(引用元:バチカン・ニュース)

彼は、とりなし手としての聖母マリアへの嘆願や願いを、世界中のカトリック信徒に奨励しました。一方、プロテスタント教会側は、彼女が処女の時にキリストを身ごもったこと、彼女が純粋な信仰を持っていたということに関しては、カトリック教会と共通の信仰を持っていますが、その彼女を特別な「とりなし手」だと考えたり、彼女に対して願ったり嘆願したりということはしません。どうしてカトリック教会は、母マリアを特別な祈りの「とりなし手」であると考えているのでしょうか。

聖書に見るマリアのとりなしの起源

このことに関しては、「カナの婚礼」の出来事が一つの重要な起源とされています。ある日、ガリラヤのカナでの婚礼に、イエスは母と共に出席していました。ところが、宴(えん)もたけなわというときになって、ぶどう酒がなくなってしまいました。

当初イエスは、何もしようとはされませんでした。しかし、母マリアからの願いを聞いた後に、イエスは水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行われました。このことから、イエスの母であるマリアにとりなしを願うことは、聖書的であると考えられるようになったのだと思います。

またマリアに「とりなし」を願う心情というのは、人々が神様を遠い存在だと感じたり、厳しい父親のようなイメージを持ってしまったりすることとも関連しています。確かに神は正しい超越者ですので、直接神に祈るよりは、人として来られたイエス、またその母であるマリアに願う方が身近だと感じる心情というのは、理解できます。

皆さんの中にも、厳格な父親に何かをお願いするときに、まず母親に相談し、母親から父に言葉添えをしてもらったという経験のある方もいると思います。しかし一方で、イエスは母マリアだけが特別な存在ではないということを、明確に語られました。

大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ3:32〜35)

ここで、キリストは血統上の母や兄弟ではなく、神の御心を行う人こそが、自分の兄弟、姉妹、また母なのですと言われました。もちろん、母マリア自身も信仰者であり、地上における母でしたので、イエスは彼女を特別に扱われましたが、神の御心を行う「あなた」もまた、マリア同様に特別なご自身の家族であるとイエスは明言されているのです。

子が紹介する父

先ほども言いましたが、私たちはカトリック教会の方々が「信徒―母マリア―イエス―父なる神」というルートで祈ることを、心情的には十分に理解できます。ところで、聖書においてキリストはどのように教えているのでしょうか。

その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。(ヨハネ16:26、27)

何と、キリストは「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」と明確に言っています。キリストが弟子たちに教えた「主の祈り」においても、「天にましますわれらの父よ」と、父への直接的な祈りで始めるように教えています。つまり、キリストに取り次いでもらうために、母マリアに願うということでしたが、当のキリスト自身は私たちに対して、直接父に祈りなさいと勧めているのです。

そして、そのように祈ることができる理由も、明確に語っておられます。それは「父ご自身があなたがたを愛しておられるから」というのです。私たちは、何か後ろめたいことがあるとき、正しい方の前に出ていくのをためらうことがあります。厳格な父に直接話すよりは、優しい母を介して伝えたいと思うときがあります。

しかし神様は、あなたの罪も弱さも全てをご存じで、その上であなたを赦(ゆる)し、愛し、受け入れてくださる方です。ですからキリストは、父はあなたを愛しているのだから、恐れないで父に直接祈りなさいと教えているのです。聖書はこのようにも教えています。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。(1ヨハネ4:18)

どうしてキリストは、人々が恐れる厳格な神を「愛の神」だと紹介されるのでしょうか。それは、キリストが子である故に、父なる神の真の深い愛情を誰よりも知っているからです。

例えば、会社内で恐れられている社長がいるとします。しかし、彼は厳しい経営状況の中で、社員を守りたい一心で厳しい言葉を発しているのかもしれず、その社長の子だけが、そのような父の苦悩や愛情にあふれた面を誰よりも知っているということがあるのです。キリストはこのようにも語っています。

父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。(マタイ11:27)

「願い」と「祈り」

さて、カトリックとプロテスタントの祈りのルートを単純に整理すると、以下のようになります。

カトリック:信徒―母マリアへのとりなしの願い―イエス―父なる神
プロテスタント:信徒―父なる神への祈り

もちろん、この単純な図式には誤解を招く余地もあるかもしれません。念のためにいっておくと、カトリックの方々も、母マリア(聖人)への願いと、神様に対する「祈り」は区別しています。つまり、母マリアや聖人たちへとりなしを「願う」としても、祈りの対象はプロテスタント教会と同様に、あくまで父なる神に対するものであるということを、カトリック神学は明言しています。この点は誤解してはいけません。

ただ、「祈り」と「願い」の区別というのは、必ずしも容易ではありません。神学的にはトマス・アクィナスらなどにより区別されてきた経緯がありますが、実際の信仰実践では、マリアにひざまずいて願う行為が「祈り」と心理的に混同してしまう可能性のあることが、古くから内部でも懸念されてきました。

例えば、中世の時代にはマリア信心が過熱し、ジャン・ジェルソンらが批判を展開しました。そして、トリエント公会議では、信仰の対象の区別を明確に再定義する必要に迫られたという歴史的な経緯があります。

もちろん、私はそのような時代を責めているわけではありません。聖書自体が非常に高価で希少であり、ごく限られた聖職者しか読むことができなかった背景、疫病などがまん延しやすかった時代において、自分だったらどうしていたかを考えれば、近寄り難い厳格な神様への心理的な架け橋として、母マリアから子なる神イエスに、イエスから父にととりなしを願う心情は、自然なものだったと思うからです。

真のとりなし手と祈りの定義

さて、母マリアや聖人たちが祈りの「とりなし手」としての役割を担っているかどうかは、聖書に明確には記されていませんが、神の右の座について、私たちのためにとりなしてくださっている方については、はっきりと書かれています。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:34)

キリストは、「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」と言われましたが、私たちが直接父に真摯(しんし)な祈りをささげるとき、彼は天において、私たちのためにとりなしていてくださるのです。御子キリスト・イエスだけではありません。三位一体の神である御霊ご自身も、深いうめきとともに、私たちのためにとりなしてくださっているとあります。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8:26)

ですから、三位一体の神様のご性質に基づき、祈りの基本的な形を私なりに定義すると、以下のようになります。

  • 私たちは、聖霊によって、キリストを通して(イエスの御名で)、父なる神に直接祈る。
  • その祈りを、イエス・キリストと聖霊がとりなしてくださる。
  • 父なる神は、あなたを愛している故に、その祈りを聴き、応えてくださる。

最後に

ここまで見てきたように、プロテスタント教会における「祈りの本質」とは、仲介者を介さず、父なる神に直接語りかけることにあります。それは、キリストの十字架の贖(あがな)いを信じる者が「神の子」とされたという信仰、「神は私を愛しておられる」という信頼に立ち、恐れずに父なる神に心を開き、直接交わるということです。

今回のコラムは、あくまでプロテスタント教会信者としての私が、自分の立場や聖書理解から一方的に論じたものです。ですから、カトリック教会側には異なる視点があるのだと思います。皆様はぜひ両者の主張に耳を傾けた上で、ご自身の理解を深めていただければと思います。

考えてみますと、このように一つ一つ、聖書の内容を精査していくこと自体、古い権威主義の時代には不可能だったように思います。できたとしてもそれは、トマス・アクィナスのようなごく一部のエリート神学者にしか立ち入ることのできない領域でした。また、現代においても、両者の違いを鮮明にすることは「角が立つ」ので、ふわっとオブラートに包んでおく方が良い関係を保てるのではないかと思う方もいるかもしれません。

これらのことに関して、鞠和(まりあ)さんという方が、私のコラムに呼応する形でブログ記事を書いてくださいました。その中で鞠和さんは、以下のように表現されています。

なぜ自分はカトリックに改宗しないのか。なぜ自分はプロテスタントに改宗しないのか。――そういった繊細な問いを、両サイドの保守的な信者たちが、大真面目に、しかもフレンドリーに語り合っている様子は、なんとも麗しいものです。それは「真理の妥協」ではなく、「真理の深まり」の象徴であるように思います。(引用元:鞠和さんの note)

お互いが自分の立場を妥協することなく、真っすぐに語ること、その上で相手を尊重して対話を続けること。このことは、知性、理解力、愛において欠けのある私たち人間同士が、少しでも偉大な神様についての理解を深めるためにぜひとも必要ではないかということです。

今回の内容が、単なる神学談義ではなく、皆様の祈りの実践、愛の神である父、とりなしてくださる子と聖霊との深い交わりに、少しでも寄与するものとなることを願います。

山崎純二のユーチューブチャンネル「21世紀の神学―Gゼロ時代の津波石碑―」の方でも、さらに踏み込んだ内容が発信されていますので、興味のある方はこちらもご視聴いただけます。

山崎純二の論考をもっと詳しく読みたい方は、書籍『Gゼロ時代の津波石碑―再び天上の神様と繋がる日本―(21世紀の神学)』を手に取っていただければと思います。

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山崎純二

山崎純二

(やまざき・じゅんじ)

1978年横浜生まれ。東洋大学経済学部卒業、成均館大学語学堂(ソウル)上級修了、JTJ宣教神学校卒業、Nyack collage-ATS M.div(NY)休学中。米国ではクイーンズ栄光教会に伝道師として従事。その他、自身のブログや書籍、各種メディアを通して不動産関連情報、韓国語関連情報、キリスト教関連情報を提供。著作『二十代、派遣社員、マイホーム4件買いました』(パル出版)、『ルツ記 聖書の中のシンデレラストーリー(Kindle版)』(トライリンガル出版)他。本名、山崎順。ツイッターでも情報を発信している。