2025年5月14日14時17分

コヘレトの言葉(伝道者の書)を読む(3)コヘレトの探求 臼田宣弘

コラムニスト : 臼田宣弘

エドワード・ポインター「シバの女王のソロモン王訪問」(オーストラリア・ニューサウスウェールズ州立美術館所蔵)
エドワード・ポインター「シバの女王のソロモン王訪問」(オーストラリア・ニューサウスウェールズ州立美術館所蔵)

今回は、1章12節~2章11節を読みます。1章11節までの円環的世界観・歴史観からは少し移行して、コヘレトの「世界と知恵と栄華の探求」が伝えられている箇所です。しかし、ここでもヘレニズム的な影響を見ることができますので、それを読み取っていきたいと思います。この箇所は、「世界」「知恵」「栄華」それぞれの探求に関する3つの部分に分けられます。どの部分も最後は、【「風を追うようなことであった」(空を意味する)+格言(下線)】という構造になっているのが特徴です。

曲がったもの

1:12 私コヘレトは、エルサレムでイスラエルの王であった。13 天の下で起こるあらゆることを、知恵によって探究しようと心を尽くした。これは神が、人の子らに与えて労苦させるつらい務めであった。14 私は、太陽の下で行われるあらゆる業を見たが、やはり、すべては空であり、風を追うようなことであった。15 曲がったものはまっすぐにならず、失われたものは数えられない。

コヘレトはソロモンに扮(ふん)して、まず世界の探求を開始します。ソロモンは、旧約聖書の列王記と歴代誌に登場するイスラエルの王です。列王記には「神はソロモンに、非常に豊かな知恵と英知、そして海辺の砂浜のような広い心をお与えになった。ソロモンの知恵は、東方のどの人たちの知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさっていた」(上5章9~10節、新改訳は上4章29~30節)とあり、聡明な知恵のある王でした。

ですから、コヘレトがソロモンに扮したということは、その知恵を自分のものとしたということです。そしてその知恵で、太陽の下で行われる業を観察したのです。それは、ヘレニズム世界に支配されていた紀元前3世紀のイスラエルを観察したということでしょう。コヘレトは、これを神から与えられた「つらい務め」であったとしています。ですから、「知恵によって探究しようと心を尽くした」というのは、コヘレトが神からの知恵を用いたということになります。

その結果は、「すべては空であり、風を追うようなことであった」のです。そしてそこに、「曲がったものはまっすぐにならず、失われたものは数えられない」という最初の格言が付されます。ここで「曲がったもの」とされているのは、世界のゆがみでしょう。7章13節に進みますと、「神が曲げたものを誰がまっすぐにできよう」とありますが、ここでの意味とは違うと思います。

私は、この「曲がったもの」というのが、ヘレニズム世界の影響を受けたイスラエルのことではないかと考えています。イスラエルすなわちヘブライズムは、「歴史とは、神との契約により、神によって支配されている直線的なものである」という理解に本来は立っていました。しかし、ヘレニズム世界に支配されることによって、その直線的な歴史観が曲がってしまい、失われてしまったものもあるという、コヘレトの嘆きであるように感じます。

ヘレニズム世界に順応してしまったために、ヘブライズム本来のものを失ってしまったという意味では、格言の後半の「失われたものは数えられない」は、この書の最後に近い10章8節の「穴を掘る者はそこに落ちる(自分の間違いによって損失を被ることを意味する)」という格言に、意味が近いと思います。コヘレトの言葉では、インクルージオ(囲い込み)という修辞法が使われていることを何度もお伝えしてきましたが、この書の最初の方に見られるさまざまな格言を、最後部に示されている格言と対比をしながら読むことも、妙味ではないかと思います。

ギリシャ哲学的な知恵と無知の探求

16 私は心にこう語りかけた。「私は、かつてエルサレムにいた誰よりも偉大になり、多くの知恵を得た」と。私の心は多くの知恵と知識を見定めた。17 知恵を一心に知ろうとし、また無知と愚かさを知ろうとしたが、これもまた風を追うようなことだと悟った。18 知恵が深まれば、悩みも深まり、知識が増せば、痛みも増す。

1章16節から2章にかけては、ギリシャ哲学の影響があると私は考えています。ギリシャ哲学は、紀元前6世紀ごろに誕生したと考えられていますが、それをソクラテス(紀元前470年ごろ~399年)が発展させたといわれています。

そしてソクラテスからその弟子のプラトン(同427~347年)、さらにアリストテレス(同384~322年)を経て、アレクサンドロス大王が東方遠征によって大帝国を建設した後、ヘレニズム世界が形成され、そこでギリシャ哲学は主に3つの潮流に発展しました。それが、ストア派、エピクロス派、懐疑派(ピュロン主義)です。これを「ヘレニズム哲学の3大潮流」と言うこともできるでしょう。

さて、17節には摩訶不思議な言葉があります。知恵を知ろうとしたのと同時に、「無知と愚かさ」も知ろうとしたというのです。私はこの「無知と愚かさ」も、ギリシャ哲学の思想によるものではないかと考えています。

ソクラテスは「無知の知」を説きました。無知の知とは、本当に賢い人間は自分の無知を知っている、という知です(プラトーン著『ソークラーテスの弁明・クリトーン・パイドーン』22ページ参照)。これは、ヘレニズム哲学に広く流布していた思想です。私は、コヘレトもこの思想に影響されていたのではないかと考えています。つまり、ヘレニズム時代のイスラエルでは、無知や愚かさを探求することは、知を探求することでもあったということです。

そのことを含めて、16~17節は、前述の3つの潮流のうち、ストア派の影響を受けているように思えます。ストア派は「知恵こそが幸福の鍵」としていて、ここでのコヘレトの探求はストア派の思想と重なっているのです。

ストア派は、ソクラテスの影響も受けつつ、ゼノン(紀元前335~263年)によって創始されたとされ、ヘレニズム哲学の3大潮流のうちでも一番影響力があったとされます。コヘレトは、紀元前3世紀半ばに活動していたと考えられますから、この探求にストア派の影響があったと考えることは、ごく自然なことだと思います。

しかし、コヘレトはこの部分も【「風を追うようなことであった」+格言】で結んでいます。ここでの「知恵が深まれば、悩みも深まり、知識が増せば、痛みも増す」という格言は、イスラエルやメソポタミア、あるいはエジプトにあった「知恵と苦痛の組み合わせに関する格言」(J・A・ローデル著『伝道の書・コヘレトの言葉』56ページ)であり、知恵を求める文化であったギリシャの格言ではないようです。

コヘレトが範としているソロモンも、「ソロモンの知恵は、東方(メソポタミアと考えられる)のどの人たちの知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさっていた」(列王記上5章10節)と伝えられていますから、イスラエルは神を中心とする独自のアイデンティティーを常に模索しつつも、4大文明のうちの2つであるメソポタミア文明とエジプト文明からは、影響を受けていたと考えられます。コヘレトは、これらの地で使われていた格言を用いることによって、「ギリシャ哲学的な知恵を求める思想」に相克しているのではないかと、私は捉えています。

また、インクルージオの観点で見てみますと、この格言は、12章12節の「書物はいくら記しても果てしなく、体はいくら学んでも疲れるばかり」という格言に対応しているように思えます。もっとも、この部分は編集者による加筆であるともいわれています。しかし、編集者であっても、思想はコヘレトと似ていたでしょうし、編集者によるインクルージオの編集であるともいえるでしょう。

栄華の探求

2:1 私は心の中で言った。「さあ、喜びでお前を試そう。幸せを味わうがよい。」 しかし、これもまた空であった。2 笑いについては、「馬鹿げたこと」と私は言い、また喜びについては「それが何になろう」と言った。3 私はぶどう酒で体を元気づけようと心に決めた。私は知恵によって心を導くが、しかし、天の下、人の子らが短い生涯に得る幸せとは何かを見極めるまで、愚かさに身を委ねることにした。

4 私は事業を広げ、自分のために邸宅を建て、ぶどう園を造った。5 庭園や果樹園をしつらえ、あらゆる果樹を植えた。6 池を掘り、そこから水を引いて木々の茂る林を潤した。7 私は男女の奴隷を買い入れた。家で生まれた奴隷もいた。かつてエルサレムにいた誰よりも、多くの牛や羊の群れを所有した。8 自分のために銀や金、王たちと諸州の財宝を集めた。自分のために男女の歌い手をそろえ、人の子らが喜びとする多くの側女を置いた。

9 かつてエルサレムにいた誰よりも、私は偉大な者となり、栄華を手に入れ、知恵もまた私にとどまった。10 目が求めるあらゆるものを、私は手中に収めた。私はすべての喜びを享受し、心はすべての労苦を喜んだ。これがすべての労苦から得た私の受ける分であった。11 だが、私は顧みた、すべての手の業と労苦を。見よ、すべては空であり、風を追うようなことであった。太陽の下に益となるものはない。

ストア派は知恵を幸福の源としていましたが、快楽は非理性的なものとしていました。それに対して、3大潮流のもう一つの派である、エピクロス(紀元前341~270年)によって創始されたエピクロス派は、「快楽は人間の本性に本来具(そな)わっているものであり、(中略)善の中心的位置を占める」(『西洋思想大事典』第2巻147ページ)としていました。

コヘレトは、3番目に栄華の探求を行っています。あらゆるものを手に入れ、喜びを享受したのです。私は、コヘレトがこのようなことを行ったのは、エピクロス派の影響を受けていると考えています。ただ、エピクロス派は節度の無い快楽主義ではなかったので、コヘレトの探求はそれを凌駕していたとも思えます。

エピクロス派もストア派と同時代のものであり、コヘレトがその影響を受けていたのはやはり自然なことです。コヘレトはこのようにして、栄華を手に入れ、知恵も自分の内にとどまらせていました(9節)。

しかし、コヘレトはこの部分も【「風を追うようなことであった」+格言】で結んでいます。コヘレトはこの書の冒頭で、「太陽の下、なされるあらゆる労苦は、人に何の益をもたらすのか」(1章3節)という問いを立てていますが、「太陽の下に益となるものはない」というこの格言は、その問いに一定の答えを与えています。そして、この後この書の随所にこの思想が見られ、インクルージオの観点で見ますと、9章11~18節と対称になっているのではないかと思います。

前回と今回は、コヘレトとヘレニズム思想の関係について考察してきましたが、彼は間もなく、イスラエルの真の神に行き着くことになります。(続く)

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※ 今回は執筆に当たり、高坂正顕著『西洋哲学史』を参照しました。

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臼田宣弘

臼田宣弘

(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。