2022年1月20日11時21分

パウロとフィレモンとオネシモ(56)「パウロの投獄体験」―3書全体の背景にあるもの― 臼田宣弘

コラムニスト : 臼田宣弘

2019年9月から始まった本コラムも、今回を含めてあと2回で終了します。今日の新約聖書学において、擬似パウロ書簡とされるコロサイ書とエフェソ書を、フィレモン書に始まる「パウロ→フィレモン(コロサイ書の著者)→オネシモ(エフェソ書の著者)」という系譜に沿って読んできました。

今回はエフェソ書6章10~20節を読みます。最初に10~17節を掲載します。

10 最後に言う。主に依(よ)り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。17 また、救いを兜(かぶと)としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

神の武具を身に着ける

11節と13節で「神の武具を身に着けなさい」が2度繰り返され、勇壮な趣のするこの箇所は、さまざまな「武具」が並べられています。

「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音を告げる準備の履物」「信仰の盾」「救いの兜」「霊の剣」とあります。こういった表現は旧約聖書にもあり、それを基にしているとも考えられます。もちろん実際の武具ではなく、「支配と権威、暗闇の世界の支配者、大いなる悪の諸霊」と戦う「武具」であり、この戦いは「血肉を相手にするもの」ではないとされています(12節)。

一つ気付かされることは、「霊の剣」に「すなわち、神の言葉を取りなさい」と説明が加えられていることです。ここでほうふつとさせられるのは、ルカ福音書22章36節の「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」というイエスの言葉です。

私は、イエスのこの命令とエフェソ書のこの言葉を結び付けて考えています。イエスの言われた「剣」とは、神の言葉という剣なのではないでしょうか。私たちは、神の言葉を剣として福音宣教をしていくのです。

コロサイ書との関係

続いて、18~20節を掲載します。

18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

ここは、コロサイ書4章2~4節に依拠していますので、その箇所を掲載します。

2 目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。3 同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢(ろう)につながれています。4 わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。

「わたしのために祈ってください」「つながれています」という内容が、コロサイ書から繰り返されているのです。両者が擬似書簡だとしても、これらの言葉には、獄中にあるパウロの姿が背景にあるのではないかと思わされます。コロサイ書はカイサリアでの投獄が、エフェソ書はローマでの投獄が何らかの形で示されているのだと私は考えています。それらについては、ティキコとの関連を見ながら、次回詳述することにします。

福音の使者

20節の「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが」は、フィレモン書8~9節とも「つながれている囚人」という内容で関連がありますので、この箇所についても掲載します。

8 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。

フィレモン書9節の「年老いて」は、原語では「プレスビューテース / πρεσβύτης」です。フィレモン書が書かれたとき、パウロはエフェソで最も脂の乗った活動をしており、まだ「年老いて」と記されるのには早いので、「プレスベウテース / πρεσβευτής」(使者)と読み替える試みが古くからなされてきたようです。またこの語は、エフェソ書6章20節の「使者として」の原語「プレスベウオー / πρεσβεύω」と同じ語幹の言葉です。そうなりますと、エフェソ書の著者がフィレモン書9節を基にこれを書いていることも想定でき、フィレモン書9節を「むしろ愛に訴えてお願いします、(福音の)使者、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが」と読む試みもあってしかるべきなのかもしれません。

いずれにしましても、フィレモン、コロサイ、エフェソの3書は「獄中書簡」であるということです。再度記しますが、コロサイ書とエフェソ書が擬似書簡だとしても、そこにはパウロの投獄が背景にあると考えられ、フィレモン書と併せても、3書はパウロの度重なる投獄がその全体の背景にあると思われます。

最後に、第2コリント書11章23節のパウロの言葉を記して今回分を終了します。

キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭(むち)打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

(続く)

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臼田宣弘

臼田宣弘

(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。