2020年1月28日10時58分

主の祭り(2)祭りの時期と秘められた意味 山崎純二

コラムニスト : 山崎純二

主の祭り(2)祭りの時期と秘められた意味 山崎純二

前回書いた通り、今年は「祭り」に注目して御言葉を分かち合っていきたいと思いますが、旧約聖書の各種の祭りの中でも、神様は特に年に3度の祭りを大切にするように命じられました。申命記にこうあります。

「あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵(かりいお)の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない・・・」(申命記16:16)

旧約聖書39巻の中で一番重要なのは、トーラーと呼ばれるモーセ五書です。一番最初の書物である創世記はモーセ以前の時代について書いていますので、そこには「祭り」に関する記述はありませんが、それ以降の出エジプト記、レビ記、民数記、申命記には繰り返し繰り返しこの3度の祭りの大切さが強調されています。

ですから、イスラエルの人々は今日に至るまで、これらの祭りを大切にしており、毎年毎年これらの日を祝日として、皆で祝っています。そして、このことが彼らの信仰に与えてきた影響は計り知れないものがあります。

イスラエルの再建

皆さんは、現在のイスラエルがいつ建国されたかご存じでしょうか?

それは、1948年5月14日です。1948年といえば、いまからたったの70年前です。イスラエルはキリストの時代の少し後に、ローマ軍によって完全に国が滅ぼされてしまいました。それから約2千年もの間、彼らは自分たちの国を持たずに、世界中の国々の間に離散(ディアスポラ)していました。

その彼らが、2千年という長い長い時を経て、再び国を建国したのですから、世界中の人々は、非常な驚きに包まれました。通常、国や民族というものは、滅んで離散した場合、数世代の内に他の国々の文化や血統と混じって、独自性を失っていきます。それが国を失って2千年もの間、民族性と信仰を失わなかったというのは奇跡なのです。

そしてそれを可能にしたのが、聖書の朗読、週ごとの安息日や、季節ごとの「主の祭り」だったのです。これらのことにより、彼らは幾世代にもわたって信仰と民族の独自性を継承することができたのです。

信仰のリズム

実は私は、若い時には季節や節目、宗教的な時節や祭りに対して懐疑的でした。そして、旧約聖書の時代の習慣は新約時代の自分にはあまり関係がないと思っていました。おそらく多くのクリスチャンもかつての私と同様、クリスマスやイースターは大切にするでしょうが、神様が定められた年に3度の祭りの意味や時期についてあまり詳しくは知らないと思います。

もちろん私たちはこれらの知識がないとしても、主イエスを信じる信仰によって救われますし、私たちは毎日主の前に静まって主との交わりの時を持つことができます。私の神学校の先生は「毎日が安息日、毎日が主日」だと言っていました。確かにその通りであり、聖書にもこのようにあります。

ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ14:5)

ですから私たちは必ずしも、旧約聖書に書かれている「祭り」の日をイスラエルの人々のように守らなければならないわけではありません。しかし私はここ最近、これらの祭りが新約の私たちの信仰生活においても重要な意味を持っていることを教えられました。そして、その意味を毎年の季節の中で思い起こすことが有益であるという確信が与えられています。

特に私は鈍い者ですので、既に与えられている神様の大きな恵みを忘れてしまうということが多々あります。そのような人の弱さをご存じであられる主は、知恵と愛によって人々に信仰と生活に有益なリズムを与えてくださいました。

日の出とともに働き日没とともに休むこと、1週間働き7日目に安息して主を覚えること、6年働き7年目に仕事と土地を休ませること、7年を7度繰り返した後、50年目をヨベルの年として全住民が解放されること。それらに加えて、春と夏と秋に主の祭りをすることを定めてくださったのです。そして、ここには神様の知恵と配慮が多く秘められています。

地の収穫

まず最初に、3つの祭りはすべて、地の収穫と関連しています。「種を入れないパンの祭り」は大麦の収穫の時期であり、「七週の祭り」は小麦の収穫、「仮庵の祭り」はブドウなどのすべての収穫が終わるときです。そして、土地というのは私たち人間と深いつながりがあります。

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記2:7)

人は神様によって土で造られました。そして土地を耕し、その収穫物を食することによって命を保つことができます。ですから、大地の収穫日というのは現代の私たちには想像も及ばないほど特別な日だったのです。

万一作物が良く育たずに凶作に終わった場合、それは命の危機に直結するほど深刻なことでしたでしょうし、作物がきちんと育ち豊かな収穫を得られることは非常な喜びと感謝のときでした。そして、神様はそれらの日に主の祭りを定められ、イスラエルの民が主を覚えるようにされたのです。

新年と第7の月

それだけではありません。前回も語りましたが、「種を入れないパンの祭り」はイスラエルの人々がエジプトの奴隷状態から解放されたことを覚える日として定められました。そして神様は、この祭りの月を彼らの「新年」として定められました。つまり、奴隷としての身分から、自由な人となったという喜びのときを、新年の祭りのときとして定められたのです。

ですからイスラエルの人にとってこの祭りは、主によって奴隷の状態から贖(あがな)われた日であり、新年であり、主の恵みによって地の産物が実った日なのですから、自然と心から喜んで主に感謝の祭りをすることができたのです。

そして秋の祭りである仮庵の祭りは、この最初の祭り「種を入れないパンの祭り」を基準(第1の月[アビブの月])として第7の月(エタニムの月)に定められました。するどい人はピンと来ると思いますが、「第7」というのは、主のまったき安息を意味しています。

主は6日間で世界を造られ、7日目に安息に入られました。そしてイスラエルの人に6日間働き、7日目に休むことを定められました。また6年働き7年目に土地と共に休むことを定められました。同様に主は、第7の月にすべての収穫を終えて安息し、主のために7日間の祭りをするように定められました。それが仮庵の祭りです。この時、彼らは収穫の喜びととともに、安息の喜びを味わうことができました。

長くなりますので今回は省略しますが、第2の祭りである「七週の祭り」の時期にももちろん意味があります。私たちは、これらすべての中に主の知恵と配慮を感じるのです。

おわりに

このようにイスラエルの民にとってこの3つの祭りというのは、主が歴史の中でイスラエルの民を救い出し、導いたということを覚えるときであり、季節ごとに主が土地の収穫を与えてくださることに感謝するときでありました。

私たちは、イスラエル民族でもありませんし、多くの人は農業に従事しているわけでもないでしょうから、この3つの祭りの意味を理解するのが容易ではないかもしれません。私自身、なぜ麦が春に収穫されるのか、よく分かりませんでした。秋の祭りが土地の収穫祭だということは分かりますが、「春」というのは種まきのシーズンという固定概念があったからです。

しかし調べて見ると、麦は春に種を撒くタイプのものと、秋に種を撒いて春から初夏にかけて収穫するタイプがあることが分かりました。そして、イスラエルの人々は後者の麦を栽培し、春に収穫したのです。

イスラエルの人々のたどってきた歴史に関しても、私たちは自分のこととしてそれを捉えることが難しいかもしれません。しかし主はイスラエルの人々の信仰の上に、異邦人である私たちを「つぎ木」して救うことを定められました(ローマ11章)。ですから私たちは、彼らのたどってきた信仰の軌跡と「主の祭り」に関心を持ちましょう。その時、私たちは主の知恵と配慮と愛を感じることができるのです。

さらに付け加えるならば、イエス様は父なる神様について「わたしの父は農夫です」(ヨハネ15:1)と言われました。神様は農夫として、私たちの心の中に神の言葉の種を撒いてくださり、私たちが神の子として成長し、やがて良い麦として天国に刈り入れられることを願っておられます(マタイ13章)。つまり、主の祭りで祝われている収穫物とはまさに、皆様一人一人のことであり、父なる神様は私たちがイスラエルの人々と共に救われることを喜ばれて、これらの祭りを太古の昔から一方的な恵みによって定められたのです。

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山崎純二

山崎純二

(やまざき・じゅんじ)

1978年横浜生まれ。東洋大学経済学部卒業、成均館大学語学堂(ソウル)上級修了、JTJ宣教神学校卒業、Nyack collage-ATS M.div(NY)休学中。米国ではクイーンズ栄光教会に伝道師として従事。その他、自身のブログや書籍、各種メディアを通して不動産関連情報、韓国語関連情報、キリスト教関連情報を提供。著作『二十代、派遣社員、マイホーム4件買いました』(パル出版)、『ルツ記 聖書の中のシンデレラストーリー(Kindle版)』(トライリンガル出版)他。本名、山崎順。ツイッターでも情報を発信している。