2019年6月20日16時48分

新・景教のたどった道(12)中央アジアに広まった東方教会 川口一彦

コラムニスト : 川口一彦

中央アジアに広まった東方教会

中央アジアは、草原の道とシルクロードの道が重なり、東西南北をつなぐ中継点でした。そのために多くの民族や商人たちが行き交いました。交易をしていたソグド人といわれる人たちは、この所で起きていったといわれています。彼らは中国に行き、商取引をしたと伝えられています。その中に東方教会の信徒たちも多くいました。

新・景教のたどった道(12)中央アジアに広まった東方教会 川口一彦
新・景教のたどった道(12)中央アジアに広まった東方教会 川口一彦
(写真:帝京大学文化財研究所より)
新・景教のたどった道(12)中央アジアに広まった東方教会 川口一彦
ブラナの灯台(川口が撮影)

景教徒たちがペルシアから敦煌、西安に至るまで、中継点となる中央アジアのバルクを通って来たと景教碑文には書かれてあります。

今のキルギスのアクべシムでは、唐代の東方教会会堂跡が発掘され、金属の十字記章、革の聖書、ぶどう酒作りに使っていたものが発見されました。さらに、時代は下って元の時代のもので、十字とシリア文字が刻まれた自然石の墓石が千個近くも発見されています。

新・景教のたどった道(12)中央アジアに広まった東方教会 川口一彦
新・景教のたどった道(12)中央アジアに広まった東方教会 川口一彦
新・景教のたどった道(12)中央アジアに広まった東方教会 川口一彦

この地域には唐代の中国軍事拠点もあり、多くの瓦や漢字で刻まれた遺跡も発見されています。唐代の漢詩人の李白が生まれたのもこの地域といわれ、玄奘三蔵はイスククル湖(玄奘は熱海と漢字で表記)を通り、スイアブ・砕葉城を経てインドに向かいました。

2018年の春、私たち一行はキルギス在住のチェ宣教師に導かれ、スラブ大学の考古資料室を訪ねました。十字墓石や発掘された石には「・・・砕葉鎮・・・」と刻まれた貴重なものや、湖底から発見された多くの遺物も見ることができました。

新・景教のたどった道(12)中央アジアに広まった東方教会 川口一彦

左下の写真は、大秦景教流行中国碑の下部に刻まれたシリア文。右は本文。本文には「伊斯」が王舎の城より中国に来たとあり、シリア文では父親がバルクで死亡したことを伝えていることから、王舎とはバルクであると考えます。

新・景教のたどった道(12)中央アジアに広まった東方教会 川口一彦

【現代訳】地方主教イズドボジード(伊斯)の子の従者アダム(景浄)と、イオニア(ギリシャ)紀元の1092年(主の紀元の781年1月)、トカリスタンの町、バルクで亡くなった長老ミリスの子で長老兼長安の地方主教のマル(聖)・イズドボジードが、救い主(イエス)の法(教え)と中国の皇帝に語った先祖の説教をこの石に記して記念碑として建てた。

*伊斯は碑文に出る人物で碑を建てた指導者。760年前後に皇帝に仕えて活躍。死去したので息子の景浄(アダム)が建てた。費用は伊斯が提供したと考えられる。

チェ宣教師の解説によれば、キルギスにタルサという町があり、道路工事をするとき土の中から、十字が刻まれ、シリア文字で書かれた墓石が千個近く発見されたことにより、この地域がタルサ、つまりイエスを信じる民の町であったことが分かりました。タルサ・達娑はペルシア語らしいです。景教碑文にも出ます。

新・景教のたどった道(12)中央アジアに広まった東方教会 川口一彦

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※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』

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川口一彦

川口一彦

(かわぐち・かずひこ)

愛知福音キリスト教会(日曜と火曜集会)ならびに名古屋北福音キリスト教会(水曜集会)の宣教牧師。フェイスブックで「景教の研究・川口」を開設。「漢字と聖書と福音」「仏教とキリスト教の違い」などを主題に出張講演も行う。書家でもあり、聖書の言葉を筆文字で書いての宣教に使命がある。大学や県立病院、各地の書道教室で書を教えている。基督教教育学博士。東海聖句書道会会員、書道団体以文会監事。古代シリア語研究者で日本景教研究会代表。特に、唐代中国に伝わった東方景教を紹介している。著書に『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』など。