2019年6月20日11時21分

コヘレト書を読む(25)「運と不運」―そういうこともある― 臼田宣弘

コラムニスト : 臼田宣弘

11 太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに、必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも、聡明だからといって富を得るのでも、知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも臨むが 12 人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり、鳥が罠(わな)にかかったりするように、人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。(9:11~12、新共同訳)

スポーツの世界では、時に強い選手やチームが試合に勝てないことがあります。あるいはまったく逆に、無名の選手やチームが勝ち上がっていくこともあるわけです。強い選手やチームが、必ずしもいつも勝てるわけではないのです。

私にとって、そういう例として深く印象に残っているのは、2000年のシドニーオリンピックの陸上女子400メートルリレーです。このオリンピックのこの種目では、マリオン・ジョーンズというスター選手を擁する米国が、圧倒的に有利といわれていました。ところが決勝レースでは、米国から見れば庭先の池の小島のような小国、バハマのチームが、絶妙なバトンパスを行い、大国である米国を破って優勝してしまったのです。当時私はテレビでこの様子を見ていましたが、バハマの選手4人が肩を抱き合って喜び泣いていた光景が印象的でした。

バハマではこの優勝に、国を挙げてのお祭りが何日か続いたそうです。バハマの選手たちも相当練習をしたのでしょうが、優勝候補にはまったく上がっていませんでした。運も味方したのでしょう。スポーツにおいてはこういうことがあるわけです。スポーツに限ったことではありません。政治の世界などでも、力を持っている者がいつも頂点に立つわけではないのです。その時々の情勢によって、選挙で落選することさえあるのです。人生に、運と不運は常に付きものです。

今回の聖書の言葉は、オリンピックのレースのようなことで書き出されます。「足の速い者が、必ずしも競争に勝つわけではない」。少し聖書学の問題になりますが、この言葉に古代ギリシャの競技を見て、これはギリシャ的な表現だとして、コヘレトの時代背景をプトレマイオス王朝時代とする論もあります。

コヘレトはさらに言葉を続けます。2番目「強い者が必ずしも戦いに勝つわけではない」。これは戦でのことでしょうか。3番目「知恵のある者が必ずしもパンにありつくわけではない」。パンにありつくというのは、良い食事をできる良い生活をするということでしょう。4番目「聡明な者が必ずしも富を得るわけではない」。平たく言えば、頭の良い者が必ずしもお金持ちになれるというわけではないということです。5番目「知識がある者が必ずしも他人から好意を得られるわけではない」。持っている知識により人々の間で評価を得られるかどうかは、その時の情勢が関係するでしょう。

コヘレトは、これらのことを「太陽の下に見た」と言います。今まで、この「太陽の下」として書かれている出来事を繰り返し読んできましたが、コヘレトは「太陽の下の出来事」を、冷笑的に見ているように思えます。「そういうこともある」と見ているのです。「魚が運悪く網にかかったり、鳥が罠にかかったりするように、人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる」(11節)と言います。人生には「そういうこともある」のです。

しかしそれでもなお、コヘレトにとって人生は、「陰府(よみ)にはないもの」であり(10節)、かけがえのないものなのです。それは、人生が神から与えられたものだからでありましょう。(続く)

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臼田宣弘

臼田宣弘

(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。