2018年9月26日06時22分

第1次北海道地震ボランティア(2)アイヌ資料館も被災、「土人」として差別された歴史 岩村義雄

執筆者 : 岩村義雄

第1次北海道地震ボランティア(2)アイヌ資料館も被災、「土人」として差別された歴史 岩村義雄
地震で壊れてしまった二風谷アイヌ資料館のショーケース=9月11日

(2)アイヌの聖地訪問

a)二風谷(にぶたに)アイヌ資料館訪問

二風谷アイヌ資料館も激しい縦揺れの地震により、ショーケースは壊れ、資料館の1階はガラス片で床いっぱいになっていました。

厚真(あつま)町から日高道を経て約45分車で走りますと、平取(びらとり)町に二風谷があります。アイヌ語「ニプタイ」(木の生い茂る所)に由来します。東北以北には、アイヌ語から取られた地名が多いです。とりわけ、北海道庁のアイヌ政策推進局アイヌ政策課によりますと、北海道の市町村名のうち、約8割がアイヌ語に由来しています。

アイヌの人々の多くは川筋に住み、生活に必要な資材を求めて生活していました。また、狩猟や交易のための交通路としても川は重要な存在でした。ですから「川(ペッ)」や「沢(ナイ)」を意味する地名がとても多くあります。北海道の地名の漢字が難しい理由を調べてみると、もともと先住民であるアイヌの人たちが付けた地名が存在し、そのアイヌの言葉に合うように無理やりに漢字を当てたからです。

お会いした館長の萱野(かやの)志朗さんのお父様である茂さん(1926〜2006)は、1950年代から約50年にわたってアイヌ民具を集め、アイヌ語の記録にも積極的に取り組まれました。茂さんの次男である志朗さんは学芸員であり、また、アイヌのユーカラ(ユカラ、叙事詩)やウエペケレ(散文の昔話)を語り伝え、現在もアイヌ語を教えておられます。

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館長の萱野志朗さん(右)と筆者。知子夫人が撮影してくださった=9月11日

資料館の1階は9月13日に再開しました。アイヌの息遣いに接するには最適な場所です。二風谷についてアイヌの聖地と呼ぶ人もいます。

1965年の資料には、平取町に466世帯、2313人のアイヌ人が住んでいたと記されています。おそらく北海道の中で最もアイヌ人が多い地域といえるでしょう。

「アイヌ」とはアイヌ語で「人間」を意味します。アイヌの社会では、「アイヌ」という言葉は本当に行いの良い人にだけに用います。従って、私たち「和人」(シャモ、日本人)はたとえ遺伝子・DNAを受け継いでいても、「アイヌ人」とは言えないかもしれません。

b)土人として差別されてきたアイヌ

北海道地震のボランティアに行って気付かされたことがあります。アイヌについて何も知らずして、北海道の被災者に寄り添うことはできないということです。被災者の痛み、苦しみ、怒り、悔しさを傾聴することが基本だからです。

第1次北海道地震ボランティア(2)アイヌ資料館も被災、「土人」として差別された歴史 岩村義雄
地震で壊れてしまった二風谷アイヌ資料館のショーケース=9月11日

「北海道」は明治以降、アイヌ研究家の松村武四郎(1818〜88)が言うように、日本人が勝手に名付けた土地です。もともとの持ち主は「アイヌ人」です。萱野茂さんは言い放たれました。「アイヌはアイヌモシリ、すなわち日本人が勝手に名づけた北海道を、日本国へ売った覚えも、貸した覚えもございません」と。(萱野茂著『国会でチャランケ』〔日本社会党機関紙局 / 社会新報ブックレット、1994年〕42ページ)

明治新政府は、アイヌを「旧土人」と法律化して土地を奪いました。サハリン、クリル列島(千島列島)のアイヌ民族を「土人」としてさげすみました。国籍、戸籍はもとより、一切の権利を認めませんでした。戦争の時だけ、政府のご都合主義によって、勅令373号(1932年)により戦場に送り込まれました。しかし、身分は「土人」のままでした。明治新政府は吉田松陰(1830〜59)の理念に基づき「大日本帝国」のパラダイムを具現化していきます。王政復古の「大日本帝国」は封建的身分制度を再編して、天皇・皇族・華族・平民の身分差別を士農工商からシフトさせました。さらにその下に「新平民」(被差別部落民)「旧土人」「土人」の階級序列を敷きました。(『アイヌ民族の遺骨は告発する』〔遺骨をコタンに返せ!4大学合同全国集会実行委員会、2017年〕90ページ)

第1次北海道地震ボランティア(2)アイヌ資料館も被災、「土人」として差別された歴史 岩村義雄
二風谷アイヌ資料館にある水力を利用したイユタプという精米用具=9月11日

最近、教科書は事実をわい曲しています。学校で用いる歴史教科書の中には偏向した内容を掲載している出版社もあります。例えば、日本文教出版の歴史教科書は、1899(明治32)年施行の旧土人保護法(1997年廃止)について、曲解しています。「狩猟や漁労中心のアイヌの人々に土地をあたえて、農業中心の生活に変えようとしました」と。実際は「土地を与えて」ではなく、「土地を取り上げて」「土地を奪って」が歴史的な真実です。2015年、文科省は歴史をわい曲したこの内容について合格のお墨付きを与えました。

森や川を生活の場としていた狩猟民族としての道を閉ざし、「農耕をせよ」と無理強いしました。差別されてきた「アイヌモシリ」(人間の静かなる大地)にとり、今回の地震はどうだったのでしょうか。

c)アイヌ人差別

第1次北海道地震ボランティア(2)アイヌ資料館も被災、「土人」として差別された歴史 岩村義雄
明治時代の絵はがき。当時、アイヌの女性は結婚すると、口の周りにひげの形をした入れ墨をした。絵葉書の下には、“北海道「土人」風俗” と書かれている。

アイヌの女性は結婚後、口の周りに夫の「ひげ」の形をした入れ墨をしました。しかし明治政府は1872(明治5)年、入れ墨の禁止令を発布しました。入れ墨の習慣のあるアイヌや琉球民族を「土人」として差別した「有司専制」の目玉政策の一つであったのではないかと筆者は考えます(「有司専制」とは、大久保利通〔1830〜78〕による議会を通さず、政策を立案、実施する官僚中心の政治)。

当時の絵葉書の下には、“北海道「土人」風俗”とあり、現郵政省などを統括する逓信(ていしん)省がそれを是認していました。

9月9日まで中東にいましたが、中東では政・官・財・学の指導者でも入れ墨(タトゥー)は珍しくありませんでした。技術至上主義がだめなら、観光で海外から旅行者を迎える視点が大切です。しかし、現状では入れ墨(タトゥー)のために、海外の有名サッカー選手やスポーツ選手も日本の温泉に入りたくても入れません。

人を差別する悪法「公衆浴場法」の4条と5条の拡大解釈をやめるべきでしょう。

多くの日本人は、刺青や入れ墨を銭湯などで見掛けると、怖いと思うかもしれません。しかし、よく考えてみたいと思います。私たちであっても、ちょっとしたきっかけで極道になっていたかもしれません。中には、極道になって後悔している人や、組織から離れた人もおり、立派に生きている人たちを外見で「同一視」して差別するのは問題です。

たとえ入れ墨をしていても、立派な人は砂の数ほどおられます。また前科があっても、本人が悔い改めているならば「一秒前は過去です」。

第1次北海道地震ボランティア(2)アイヌ資料館も被災、「土人」として差別された歴史 岩村義雄
アイヌの絵はがき「チセと熊」

いつまでも過去の失敗、過ち、若気の至りをぶり返して、「同調圧力」を掛ける悪い性向を社会は悔い改めなければなりません。第4次バヌアツ・ボランティア報告を参照ください。先住民と入れ墨について、また2013年に北海道恵庭市の温泉施設で入れ墨を理由に入浴を拒否されたマリオ語の女性教師の話を取り上げています。

失敗しても、温かく迎え入れるコミュニティーづくりが、「田・山・湾の復活」の土台です。(続く)

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岩村義雄

岩村義雄

(いわむら・よしお)

2001年の9・11以降、難民支縁、被災者に寄り添う「ボランティア道」や「田・山・湾の復活」を展開。これまでに150回を超える東北ボランティアや熊本豪雨の被災者支援を行い、千葉県布良(めら)、北海道厚真(あつま)町、岡山県真備(まび)、福岡県松末(ますえ)、熊本県益城(ましき)、東遊園地(神戸市役所隣)で炊き出しを行ってきた。海外では、ネパール、シリア、北朝鮮など10カ国以上で孤児施設の開設に取り組んでいる。神戸国際支縁機構代表、「みんなで『死』を考える会」会長、エラスムス平和研究所所長、「阪神宗教者の会」代表世話人、「カヨ子基金」前代表、神戸新聞会館講師、神戸国際キリスト教会牧師。著書、資格、表彰はなし。