2018年6月16日16時31分

なにゆえキリストの道なのか(147)孤独は耐え抜いて生きるほかないのか 正木弥

コラムニスト : 正木弥

誰も私に本気でかまってくれない。孤独は耐え抜いて生きるほかないのか。

孤独もまたつらいものです。孤独になる原因を探ってみると、自分の性格上の何か、身体上の何か、コミュニケーション上の何か等々、原因が分かっている場合も分からない場合もあるでしょう。その原因であるものを直したりできる場合とできない場合、いずれもありましょう。仮に、原因が分かっているにしても多分どうしようもないケースがほとんどでしょう。

どうしようもないなら、嘆いても仕方がありません。ここは嘆くよりも、孤独に居直るほうがよさそうです。居直ってストレスを溜めないために、隠れ家・避け所を持つ必要がありますが、その隠れ家・避け所として一番良いのは聖書の神様です。

神はわれらの避け所、また力なり。悩めるときのいと近き助けなり。(詩篇46:1)

孤独になったとき、聖書の言葉に接するなら、その節々(ふしぶし)の語り掛けがよく響いてきます。その語り掛けの主(キリストの神)と親しい関係を結ぶ絶好のチャンスです。キリストは、真実な方、いつくしみと慰めに満ちた方。この方は、生きる力、生きる確信を与えてくれます。孤独であっても、この方が友となってくれるなら、堂々と生きられます。

人間は身勝手な存在で、自分に役に立つ人、自分に面白さか、楽しさか、気分転換か、安らぎかを与えてくれる人、とにかく有用な人とつながりを持とうとします。逆に、何の益ももたらさず、重荷になる人は避けるものです。それがないと分かるとプイと見捨てて行ってしまうものです。しかし、キリストの神は違います。

ほむべきかな。日々、私たちのために重荷を担われる主。私たちの救いであられる神。(詩篇68:19)

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

自分の周囲にいるたかだか千人か2千人の中でちやほやされなくとも、あなたは知恵と恵みの神の前で愛されて生きることができるのです。神はこう言われるのです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)

人がキリストを信じるとき、神が聖霊としてその信じる人の心の奥底に宿ってくれ、以上のことをしっかり対応してくれます。もう独りではなく、いつも聖霊の神と共に生きるのです。

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正木弥

正木弥

(まさき・や)

1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。

【正木弥著書】
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)
『創造論と進化論 〜 覚え書 〜 古い地球説から』
『なにゆえキリストの道なのか』

【正木弥動画】
おとなのための創作紙芝居『アリエルさんから見せられたこと』特設ページ