2018年4月18日21時59分

「21世紀型青春映画」をキリスト教的に読み解くと・・・ 「ちはやふる -下の句-」

執筆者 : 青木保憲

「21世紀型青春映画」をキリスト教的に読み解くと・・・ 「ちはやふる -下の句-」
「ちはやふる -下の句-」© 2016映画「ちはやふる」製作委員会 © 末次由紀/講談社

※本評論は、2016年4月の段階で書かれていました。今回は、それを加筆修正したものです。

通常二部作となると、第一部が好評で、第二部で少し評価が下がることになるものらしい。しかし「ちはやふる」に関しては、この法則は当てはまらなかった。興収も評価もほぼ同じ程度。二部作としてはかなり成功の部類である。

雑誌のインタビューで監督は、「上の句」「下の句」を一続きのドラマであると同時に、独立した物語として成立させたかったと語っている。そのこだわりが見事に「21世紀型青春映画」として昇華されている。連続して二部作を一気に見ることもいいが、間隔を空けて(「上の句」「下の句」は1カ月と少しのインターバルがあった)見ることで「百人一首」の奥深さ、幅広さを複数の視点から理解することができるようになっている。

まず断っておきたいのは、「ちはやふる」という作品は決してキリスト教的映画ではないということ。製作者もそんなことを意図していない。しかし「とっつきにくい」と思われがちな題材にどうやって人々の興味関心を喚起するか、という一点においてのみ、この映画をキリスト教的に解釈する意味が生まれてくる。

「下の句」は、私たちキリスト教界がつかみ取るべきメッセージを提供してくれている。それは、教会に通い始めた人々に起こってくる「変化」をどう受け止め、どのように乗り越えていくか、という「教会形成論」的問いである。

「下の句」は、「どうして競技かるたをするのか」という問いに始まる。「上の句」であれだけ情熱的に「競技かるた」に打ち込んだ千早(広瀬すず)が、その情熱の出処を求めて葛藤するさまが描かれる。それはやがて「情熱を持って取り組むことに、果たして意味があるのか」と懐疑的に変化していく。きっかけは、かつてかるたに情熱を傾けた友人が「かるたをやめる」と宣言したことである。

これは、何かに熱くなれているときには決して感じる必要のない問いである。しかし、その情熱をいつまでも保ち続けるためには、避けては通れない問いだともいえる。千早は、そして彼女の仲間たちは、この問いの前に硬直してしまう。

「本当にかるたをやってきて、よかったのか」「かるたにこれからも情熱を注ぐことは、本当に良い結果を生むのか」など、今まで思いもよらなかった疑念が彼らを襲い始める。「上の句」では、千早がただ真っすぐにかるたに向き合い、その楽しさを新しい仲間たちに伝えるだけでよかった。しかし「下の句」では、彼女の情熱に「歪み」が生じてしまう。

さらにこの「歪み」をねじれさせるのが、4年連続チャンピオンとして「かるたクイーン」の異名を取る女子高生かるた名人の出現である。彼女はたった一人でかるたに向き合い、そして名人の域までその力を伸ばしてきた。このクイーンに千早は挑もうとする。その過程で千早はさらに追い詰められていくことになる。

「上の句」評で触れたように、知恵を絞ることで人々が教会にやってきたとする。彼らがキリスト教の福音を受け入れ、教会へ毎週通うようになったと仮定してほしい。しかし現実問題として、教会から離れていく人、いつしか毎週通うことが「ルーティーン化」してしまうという変化が起こってくる。

そんな彼らから出てくる問いは「どうして教会に毎週通っているんだろう」「奉仕があるからか、牧師が怖いからか」ということになる。これに対して教会は、いろんな手だてを考案する。牧師が面談したり、各グループで共に祈ったり、聖書の学びを個別に再開したり・・・。しかし、これでもうまくいかないことは往々にしてある。

「ちはやふる」になぞらえるなら、初期の情熱に「歪み」が生じるといってもいい。やがて教会から去っていく人がちらほらと出てくる。ある調査では、日本でキリスト者となって約半年内に教会を去る者が半数近くいるという。

しかし、信仰を捨てずに保持できる決定的な要因があることを私は「下の句」から知ることができた。「下の句」の後半、この「かるたクイーン」に挑戦する過程で、最終的に千早は忘れかけていた大切なものを見いだす。それは、個人の情熱を傾けるだけでは到底為し得ない、新しい次元での「気付き」であった。

それに気付かせてくれた存在とは何か。千早は競技の途中でやおら立ち上がる。そして回想する。自分が楽しくかるたをとっていた時のことを。それはどんな状況だったか。誰がいたか。その時どんな気持ちだったか・・・と。

それ以降、彼女はいきなりクイーンを凌駕(りょうが)するようになる。この心情の変化が見事であった。彼女は「友と一緒に」戦っていると理解したのである。千早がかるたを好きになったのは、かるたが好きな友がそこにいたからだった。これに気付いた千早の姿を通して、今度は情熱を失ってしまった友が救われる展開となる。「21世紀型青春映画」と評した狙いはここにある。

「友」を自分の根源的希求を満たす触媒と見なし、彼ら(友達)を通して自身の生きざま、人生、そして情熱を永続させる「大きな力」へ心を開くことができるようになっていく・・・。21世紀の「青春物語」は、「友情」という馴れ合いに人々を留まらせることではなく、もっと大きな枠組みに私たちが進みゆくためのきっかけを提供してくれるのである。

これは、現代の教会生活においても同じである。教会に通い始め、いつしか信仰が失われていく。どうしたらいいのか。端的にいうなら、情熱を注ぎ合う「仲間」と時間を過ごすことである。実際一人で信仰を守ることは容易ではない。もし自分の情熱が歪み始めていると感じたら、千早のように考えてほしい。初めに教会で感じた情熱、信仰・・・。

その時、誰かがあなたと一緒にいなかったか。その誰かと体験を共有することで、信仰が育まれてきたのではなかったか。その時のことを思い出し、抱いた信仰の大切さを、もう一度友と語り合うことで、再び取り戻すことである。

先の映画評では、「上の句」を教会の「福音宣教」という観点から解釈した。一方「下の句」では、教会に集うようになった人々が、どうしたら情熱を持って集い続けることができるか、信仰を一生涯持ち続けることの意味は何なのか、という観点から「教会形成論」的に解釈してきた。上の句(福音宣教)を踏まえつつ、下の句(教会形成論)を独自の作品として評するとき、実は世の中で「青春映画」として幾度となくアピールされてきた「友情」こそ、信仰の世界においても有用であると私は確信している。

この「下の句」は、単なる「中高生向けの映画」ではなく、何かに一心不乱に取り組んでいるあらゆる世代へのエールとなっている。そしてこの取り組みは、一人で成し遂げられるものではなく、周りにいる「仲間=友」と一緒に取り組むことで、さらなる高みに到達できる。その可能性を映画はさわやかに指し示しているといえよう。

■ 関連記事:競技かるたに青春を燃やす広瀬すずに日本の教会が学ぶべき姿を見た!? 映画「ちはやふる」

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青木保憲

青木保憲

(あおき・やすのり)

1968年愛知県生まれ。愛知教育大学大学院卒業後、小学校教員を経て牧師を志し、アンデレ宣教神学院へ進む。その後、京都大学教育学研究科修了(修士)、同志社大学大学院神学研究科修了(神学博士)。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。東日本大震災の復興を願って来日するナッシュビルのクライストチャーチ・クワイアと交流を深める。映画と教会での説教をこよなく愛する。聖書と「スターウォーズ」が座右の銘。一男二女の父。著書に『アメリカ福音派の歴史』(明石書店、12年)、『読むだけでわかるキリスト教の歴史』(イーグレープ、21年)。