2018年3月17日08時28分

なにゆえキリストの道なのか(134)人生は不条理、神は善悪にけじめをつけないのか? 正木弥

コラムニスト : 正木弥

人生は不条理だ。神は善悪にけじめをつけないのか。

その通りのように見えます。「悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい」(伝道者の書8:14)。人生の不条理は多くの人が感じるところです。

ところが、人生は不条理ばかりかというと、時には神はやはり、正しい人には良い報いを与え、悪者に相応の罰を下すこともあります。その人が生きているうちに裁くのです。これは、世の人があまりに神を舐(な)めることのないよう、神が信賞必罰の正義の神であることを示すために行うのでしょう。

では、神の裁きは一貫した方針がないのでしょうか。いや、決してそうではありません。神はやはり間違いなく「公義の神」です。悪や罪をそのまま見逃す方ではありません。罰すべきものは必ず罰する方です。

「主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方」(ナホム1:3)

他方で、善や正義に生きた者をそのまま放置する方でもありません。その生き方、その信仰に必ず良い報いを与えてくださる方です。この原則は大変大事なことで、そうであるからこそ私たちは信頼して従っていけるのです。神はその信頼を裏切ることはありません。

ただしかし、神は、裁きと報いを大変慎重になさるということです。決して急ぎません。なぜなら、どんな悪人も悔い改める可能性がないとはいえませんし、逆に、善に生きても辛抱し切れずに後で裏切ってしまうことがないとは限らないからです。

神は、人を裁くのに全生涯を見てからなさるのが原則です。人生を終えてから、その全生涯を評価して裁くのです。神はすべての人が悔い改めて救われることを願っているので、生涯が終わるまで待っていてくれます。ですから、この世の人生の終わりまでは(人から見ると)裁かれないように見えるのですが、しかし、決して裁かないで終わりということにはなりません。

その裁きは、イエス・キリストがもう一度世に来られたとき、すなわち、世の終わりにまとめてするのです。これを「最後の審判」といいます。

「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」(ローマ2:6)

「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです」(ローマ14:10)

「その時には、おのおのその行いに応じて報いをします」(マタイ16:27)

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」(Ⅱコリント5:10)

「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです」(使徒17:31)

「確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる」(詩篇96:13)

「主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行われる」(詩篇9:8)

聖書は、最後の審判をことあるごとに強調しています。それがないなら、あるいは信じないなら、「この世は闇だ」ということになってしまうでしょう。最後の審判を信じる者のみ、神を畏れ、不条理に雄々しく耐えて、正義に生きることができるのです。

<<前回へ     次回へ>>

◇

正木弥

正木弥

(まさき・や)

1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。

【正木弥著書】
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)
『創造論と進化論 〜 覚え書 〜 古い地球説から』
『なにゆえキリストの道なのか』

【正木弥動画】
おとなのための創作紙芝居『アリエルさんから見せられたこと』特設ページ