2018年1月19日07時18分

温故知神―福音は東方世界へ(89)大秦景教流行中国碑の現代訳と拓本34 川口一彦

コラムニスト : 川口一彦

温故知神―福音は東方世界へ(89)大秦景教流行中国碑の現代訳と拓本34 川口一彦

<本文と拓本>文字30(1022+30=1052)

南山峻極(南山の峻極に比し)、沛澤與東海齊深(沛澤<多大な恩恵>は東海の深さに齊し)。道無不可(道は可ならざるは無く)、所可可名(可とすべきところ名づくべし)。聖無不作(聖は作さざるは無く)、所作可述(作すところを述ぶべし)。粛宗文

<現代訳>

南山よりも高く、水の流れゆく東海の深さに等しいほどです。皇帝の道に不可能はなく、至る所に名があり、皇帝の成されないことはありません。今成されたことを述べましょう。粛宗文明皇帝(711~762、在位756~762。第10代皇帝)

<解説>

粛宗は、玄宗皇帝の三男として生まれましたが、この時代は反乱が起きた時代で、755年(~763年)に唐の節度使であった安禄山(ソグド人といわれる安禄山とその部下の史思明ら)が反乱を起こすと、粛宗は父・玄宗皇帝と長安を脱出。粛宗は、郭子儀の軍隊と反撃し、翌年の8月に霊武において皇帝に即位します。

この時、すでに霊武には景教会堂が建っており、有力な信徒が皇帝に仕えていました。その人物が、後に碑文で述べている節度副使の伊斯であり、彼の参戦により、唐軍は勝利を収めました。10月には洛陽や長安を奪還しましたが、粛宗の政治力は官僚の力で発揮できない日々が続きました。彼は、父・玄宗が死去した13日後、病の中52歳で死去します。安史の乱は、最終には至っていませんでした。

安史の乱は、世界史、東洋史では有名な事件として取り上げられています。

※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)

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川口一彦

川口一彦

(かわぐち・かずひこ)

1951年、三重県松阪市生まれ。愛知福音キリスト教会宣教牧師、基督教教育学博士。聖書宣教、仏教とキリスト教の違い、景教に関するセミナーなどを開催。日本景教研究会(2009年設立)代表、国際景教研究会・日本代表を務める。季刊誌「景教」を発行、国際景教学術大会を毎年開催している。2014年11月3日には、大秦景教流行中国碑を教会前に建設。最近は、聖句書展や拓本展も開催している。

著書に 『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、2014年)、『仏教からクリスチャンへ―新装改訂版―』『一から始める筆ペン練習帳』(共にイーグレープ発行)、『漢字と聖書と福音』『景教のたどった道』(韓国語版)ほかがある。

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