2017年3月26日20時34分

なにゆえキリストの道なのか(84)人間は進化してできた、何か不都合があるのか 正木弥

コラムニスト : 正木弥

人間は自然に(変化して)進化してできたのだ。それで何か不都合があるのか。

前述の通り、進化論は確たる根拠のない「仮説」だと言わざるを得ません。しかし、それを真理だと信じる人もいます。そういう方々にとっては、人間は偶然の産物、偶然の積み重ねでひとりでに「自然に」できた存在だということになります。そう考えるなら、人間(その一員たる自分)が今このように存在しているのは(偶然の積み重ねですから)必然ではありません。

必然でない存在なら、(本来は)どのように生きようと自由ですし、勝手です。生き続ける必然性もありません。勝手気ままに生き、勝手気ままに死んでいい、ということになります。そうした人にとっては、存在すること自体が意味がないことになり、その人生でぜひしなければならないこともないし、人生をどのように生きるべきだという目的もないのです。何しろ、偶然にできたのですから。

このように、人間が進化してできたと考えるなら、(心の底では)生きる意欲が湧かず、虚無的人生観にとらわれやすく、強い者勝ち、運・不運の論理の不合理な人間社会をただ受忍するだけ。面白くもない、残酷な世界観となってしまいます。

特に、どうあらねばならない、という道徳観も土台も失いますから、見つからなければ何をしてもいい、ただ強い者に従っておけばいい、という不道徳な人生観、時に殺伐な社会観となります。

現に、日本社会は進化論が支配していますから、上述の精神構造が実現しています。少しつまずくと「もう死んでやれ」ということになって、自殺する人が年に3万人を超える状態が10年以上も続いていました。それも、むべなるかな、です。自殺対策を政府が検討していますが、それなら、進化論教育をやめる方が効果がありましょう。

人間は少しずつ偶然に変化を重ねていつの間にか進化してできた存在ではなく、神が、その愛の対象としてお造りになった存在です。ここに、人間存在の意味があり、希望があり、道徳・善悪・生きがいの土台があるのです。

<<前回へ     次回へ>>

◇

正木弥

正木弥

(まさき・や)

1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。

【正木弥著書】
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)
『創造論と進化論 〜 覚え書 〜 古い地球説から』
『なにゆえキリストの道なのか』

【正木弥動画】
おとなのための創作紙芝居『アリエルさんから見せられたこと』特設ページ