2011年4月25日12時55分

イエスの十字架

万代栄嗣牧師
 ・・・まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。・・・ほふり場に引かれて行く小羊のように、・・・彼は口を開かない。・・・(イザヤ53・1~12)

 今日の聖書は、旧約聖書に記された数多くの預言の中でも、世界的に最も有名なイザヤ書の御言葉です。この御言葉は、二千年前のイエスの十字架の出来事よりもさらに何百年も前に書き記された預言書の一節です。キリストの到来は、偶然や成り行きの出来事ではありませんでした。旧約聖書のイザヤ書53章の中に、救い主イエス・キリストの姿が鮮やかに預言されていて、初代教会のクリスチャンは、この物語を感謝して読んだのです。私たちは、この箇所に何度も出てくる二つの言葉に注目しておきたいのです。

1.私たち

 ここに出てくる「私たち」とは、一体、どういう私たちでしょうか。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った」神から与えられた預言書のお言葉は、私たちを羊にたとえています。イラストに描いても、白いモコモコの毛があって、かわいらしいキャラクターになる羊でよかった。一瞬、そんな風に思うかもしれません。でも、聖書に出てくる羊は、常に弱く迷いやすい存在で、羊飼いがいなくては、そして、みんなと一緒にいなくては、迷い出て、あっけなくライオンや狼にかみ殺され食べられてしまうはかないものとして描かれています。野生化して、しっかりと生きていける動物もいますが、聖書に記されている羊は、自分だけでは生きていけない愚かな動物です。自分では一生懸命で、のどの渇きを潤すために水場を求めて歩くけれど、それが的を射た道のりではなく、いつも自分勝手に迷い出て、その挙句、死ぬ以外にない愚かな存在なのです。

2.彼

 彼は、私たちの罪深さ、私たちの病を負い、痛みをになった、とあります。私たちが人生を歩む時、そこには苦しみがあります。その苦しみや痛みや病を彼が背負ったというのです。

 「ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」彼は、小羊と雌羊にたとえられています。この小羊は、迷い出て滅びるだけの愚かな羊とは違います。

 旧約聖書の民であるイスラエル人たちが、エジプトの圧制から大脱出する時、イスラエル人を解放しようとしないパロに神が送り込んだ最大最後の災い、それが、エジプト中の最初に生まれた子どもが死んでしまうという裁きでした。ただ、イスラエル人の子どもが死なないように、神は、「イスラエル人の家の玄関の柱と鴨居に、羊の血を塗りなさい」と命じられます。自分の愚かさゆえに死ななければならなかった羊ではなく、他の人の命を助けるために、印として身代わりに殺されなければならない小羊が必要だったのです。

 聖書の預言は時代を超えます。この預言書の中の「私たち」とは、今ここでイザヤ書53章を開いて読んでいる私たちのことです。

 幸せになるために、と思ってしていることが、人に対する罪を平気で犯していたり、嘘をついたことが後でとんでもない悪影響を及ぼしたり、自分らしく好きに生きられると思っていても、それは迷い出ているのであって、私たちは、自分の命さえ正しく保つことはできません。私たちの中には、自分の力ではどうしても解決できない罪があります。誰かがどこかで全部引き受けなくては、罪が罪を呼び、あちらこちらに垂れ流され、気がつけば、放射能汚染どころじゃない、私たちの人生も地域社会も国も罪で汚染される、どこにも持っていきようのない罪があるのです。

 でも感謝なことに、私たちの罪、悲しみ、病を一身に背負ってくれる「彼」がいる。言うまでもなく、救い主イエス・キリストです。人間は、どんなに立派でも、人の罪を背負うことができませんから、神であるお方が、人間の罪を背負うために人の姿をとってこの世に来て下さったのです。そして、二千年前、私たちが処理しようのない罪をキリストは受けとめて本当に十字架にかかり血を流し死んで下さいました。本当は、私もあなたも自分の罪の愚かさゆえに死ぬべき者だったのです。

 聖書の中には、祝福の法則がいっぱいあります。でも、全ての祝福の法則をいただくためにも、一番の原則を掴んでおかなければいけません。まず、魂の大掃除、罪の汚れを取り除くことです。そのために救い主イエス・キリストが来て下さったことを心から感謝したいのです。

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万代栄嗣(まんだい・えいじ)

 松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。

 また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。

 国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。